風が吹く前に 第2部 (11)                       目次

 約束どおり遅くならない時間にメイアの家から退散してきたリシュアは、自宅のカウチに寝転がりながら先刻のメモを読み返していた。リシュアの質問にメイアが答えるという形で、多くの疑問が短時間で消えたのはとても効率的で非常に助かったと言える。しかしメイアという第三者に頼るだけではなかなか核心に触れる話までは手が届き難い。例えばインファルナスのことにしても、それが狙われて少なくとも2つの事件に関わっているという事を明かすこともできない以上はあまり深く突っ込んだ話はできない。
 「さて、後はオクトの情報と聞き込みが頼り、か」
 ばさりと手帳をテーブルに放るとリシュアは目を閉じた。聞きたかったのは他にもあった。カトラシャ寺院のことや司祭のこと。しかしその質問は何故か口にすることができなかった。理由には僅かに心当たりがある。
 「ああ、全く……」
 苛立たしそうにリシュアは呟いた。
 同時に何人もの女性と交際をする自由なスタイルの恋愛の中にもリシュアはそれなりのルールを設けている。まず、そういう複数の関係を理解できない相手とは男女の付き合いをしないこと。必ずお互いが納得した上で歩み寄ることにしている。そして許容以上に人数を増やさないこと。手に負えなくなっては自滅するだけだ。楽しく付き合うためにはきちんとした線引きも必要なのだ。そして会っている間は必ずその相手だけに集中すること。浮ついた気持ちで相対しては失礼というものだ。他の女性の事を話題に出すのはもちろん、考えることもしないように決めている。気持ちが揺らいでいてはそれは必ず相手に伝わるからだ。
 「だから何だっていうんだ……」
 自嘲するようにまた呟く。それが今この状況に何の関係があるというんだ。何故メイアの前で自分は司祭の話が出来ないというんだ。その自問にはもう答えは出ていた。明らかに自分は司祭を恋愛の対象として感じ始めている。そうでなければメイアといる時に寺院の事を考えただけでこれほどに罪悪感を覚えるはずがない。馬鹿げている。そうも思う。相手は司祭だ。数ある恋人の1人などではないのに。頭ではそう思ってみても妙に気持ちが晴れないことが一層リシュアを苛立たせた。こんなに不安定な気分になるのは一体何故なんだろう。今は事件に関わる謎よりもそちらの方が彼にとって重大な問題になりつつあった。
 リシュアは戸棚の中からウィスキーの瓶を取り出しグラスに注ぐと、気分を晴らそうとするかのように一気にグラスを空けた。何か気を紛らわせるものが必要だ。ぱちりとテレビのスイッチを入れると丁度夜のニュースを流していた。そのままグラスとボトルを手にカウチに戻り、ぼんやりと画面を見つめる。遠くの町で起きた交通事故や市街地の窃盗事件、未遂で終わった強盗事件などが無表情のアナウンサーに読み上げられていく。無機質な音楽を聴くような気分で眺めていると少し気分が落ち着いてくるような気がした。まだ世の中は何も変わっていない。今は少し奇妙なことに関わってはいるがその気になればいつでも引き返せるのだ。リシュアは短く息を吐き出すと再びグラスを口に運んだ。
 気が付けば朝になっていた。結局あのまま一睡も出来ずにぼんやりと砂の嵐になった画面を見つめながら夜を明かした。外では鳥が鳴いている。目の前のボトルは空になっていた。それでもリシュアはまったく酔うこともできず眠くなることもなかった。ただ、苛立ちはどこかに消えていた。立ち上がってカーテンを開ける。遠くの空がうっすらと明るく白み始めていた。今日は寺院に行く日だ。しかし全く気が乗らない。しばらく考えた後、リシュアはごろりとベッドに横になった。白い天井を見つめてぼんやりとしているうちにようやく睡魔が降りてきて、リシュアは吸い込まれるように目を閉じた。
 
 
 
目覚めるとやはり白い天井がそこにあった。部屋は薄暗い。手元の時計を見ると時間は11時半あたりを指していた。まだ眠気の残る頭でそれが昼なのか夜なのかを考えてみた。しばらくするとようやく頭が冴えてきて、リシュアはベッドの上に体を起こした。カーテンの隙間からは僅かに日差しがこぼれている。大きく伸びをしてベッドから立ち上がるとそのままシャワーを浴びて身支度を整え始めた。
「仕方ない。出かけるか」
そう自分に言い聞かせるように鏡にむかって呟いた。すると少し気分が吹っ切れたような気がした。テーブルの上に投げ出されていた車のキーを手に取ると誰もいない部屋のドアを後ろ手に閉めた。
 通勤時間でもない下りの道路は空いていた。気持ちとは裏腹にみるみる寺院との距離は縮まり、程なくリシュアは寺院の入り口に立っていた。庭の隅でロタが屈んでいる。どうやら芝生の間から伸びた雑草を無心に抜いているようだ。何気なく近づいて声をかけてみた。
 「よう。精が出るな」
 「あっ。お前、何度言ったら分かるんだ! 芝生を踏むなって言っただろう!」
 労わりの言葉に罵声が返ってくる。慣れたこととはいえうんざりした気分になり思わず眉間に皺を寄せた。
 「はいはい、分かったよ。悪かったよ。じゃーな」
 すんなりと引き下がられて拍子抜けしたようなロタに見送られて警備室へ向かった。
 警備室のドアを開けると、アルジュ、ユニー、ムファ、ビュッカの4名全員が揃っていた。通常交代制で警備をするので非常呼集以外で全員集まることは少ない。今日はビュッカが長期の旅行に出るのを送るために皆で集まることにしたのだ。
 「いいなあ。恋人と甘ーい婚前旅行かぁ。お土産弾まないと承知しないですからね!」
 ムファが心底羨ましそうにビュッカを突っついた。
 「ストラウゾ地方のなまず料理は最近人気らしいですよ。美味しいところは場所が分かり難いらしいから、地元のタクシーの運転手さんに聞くといいそうです。あ、あと僕、お土産はファッテ町名産の岩塩チョコがいいです」
 旅行雑誌を片手にはしゃぐユニーを冷ややかに見ていたアルジュはビュッカに文庫本を手渡しながら僅かに微笑んだ。
 「移動の時お暇でしょうから。お勧めの詩集です。お気をつけて」
皆に囲まれて、嬉しそうにビュッカは頷いた。そうしてリシュアに向き直り敬礼をした。
 「長期の休暇を頂き有難うございます。留守中何かとご迷惑をお掛けしますが宜しくお願い致します」
リシュアはにっこりと笑ってビュッカの肩に手を置いた。
 「まあ、気にすんな。お前の人生にとっては大事な旅行になるだろうから、ここの事は気にせずのんびりして来い」
 そうしてジュースで乾杯をして旅立つ友を送り出し、休暇だったものはそれぞれ帰宅した。残ったのはリシュアとユニーだった。2人の交代制での任務になるので、ビュッカの留守中はリシュアもシフトに組み込まれることになる。ここしばらくオフィスでの事務仕事に縛りつけられてうんざりしていたところだったので、いい気晴らしにはなるだろう。リシュアはあまり深く考えるのはよしてこの状況を楽しむことにした。
 
 
 
 「これから午後のお茶だけど、どう?」
 巡回をしている途中でイアラが声をかけてきた。リシュアは暫く考えた後、ぎこちない笑みを浮かべて頷いた。
 「ああ、お邪魔するよ」
 何も気にすることはない。やましいことなどないのだから。そう思うことにした。適当に巡回を切り上げて裏庭へ向かう。白く房になった花が辺りに甘い香りを漂わせていた。イアラがテーブルにティーセットを運ぶのを手伝いながら大きく息を吸い込む。
 「いい香りだな」
 「でしょ? サキアラっていう花よ。司祭様は白い花がお好きなの」
 白い花は清楚な司祭に良く似合う。そんな事を考えていると後ろから司祭とロタの声が近づいてきた。
 「お疲れ様でしたロタ。喉が渇いたでしょう」
 「有難うございます司祭様。このくらい訳ないですよ。このところ雨も夜露が少ないから雑草もあまり伸びないんです」
どきりとして一瞬身構え、何事もないように振り向きお辞儀をする。
「お邪魔しております」
司祭は微笑んでリシュアに椅子を勧めた。
「いいえ、いつでも歓迎致しますよ。その後身内の方のご病気は如何ですか?」
「有難うございます。もう落ち着いたようでした」
やや強張った笑顔を病人への心配ととったのか、司祭は労わるような視線を向けて頷いた。
「先日も申しましたが、良かったらお庭の花をお持ちくださいね」
「はい。有難うございます」
折角ここまで来たのだから、帰りにまた寄ってみようか。そんなことを考えてみる。
「お言葉に甘えて今回は頂いて参ろうと思います」
その言葉に司祭はにっこりと嬉しそうに微笑み、お茶を配っているイアラに声をかける。
「中尉さんがお帰りの時に、何かいいお花を見繕って差し上げてくださいね」
イアラはリシュアと司祭の顔を見比べて笑顔で頷いた。ここは本当に平和だ。驚くほどに。貴族と軍の対立やイリーシャという怪しい集団と異能者を狙った殺人事件。狙われた宝剣。全てこの寺院を中心に起きていることだというのに、当のこの場所はこんなにも穏やかだ。いつまでもこの平穏が続いてくれることを、リシュアは信仰のない神に祈るばかりだった。

 

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