風が吹く前に 第2部 (13)                       目次

寺院に帰ってからもリシュアはアンビカのあの動揺した姿が気になって仕方がなかった。司祭が本当に男ならアンビカのことだ、小ばかにするような態度をとったりけしかけたりするだろう。
 「こりゃあいよいよ怪しくなってきたな」
 しかし喜ぶべき方向に予想が固まりつつあっても、何故か気持ちは裏腹に不安で落ち着かない。苛立たしさは募るばかりだった。リシュアは大きくため息をついた。
 「夜中にため息をつくと死神が来ますよ」
 巡回を終えたユニーが戻ってきていた。リシュアは答える気にもなれず、立ち上がってユニーの頭をぽんぽんと軽く叩くと警備室を後にした。時間はもう深夜の2時を回っている。朝方中途半端な時間に眠ってしまったせいか、横になっても一向に眠くならなかった。外は月(リュレイ)が明るい夜だ。少し散歩に出て気分を変えることにした。
 庭は月明かりに照らされて青く冷たく輝いていた。止みかけの風が壁の向こうでひゅるひゅると音を立てる。ひんやりとした夜気を吸い込むと、少し胸のつかえが取れたような気がした。リシュアはそのまま裏庭へ向かった。
 木戸を開けてロタが休んでいる庭師小屋の前を静かに過ぎると、昼間と同じく白いサキアラの花の甘い香りが漂っていた。誘われるように歩み寄り花にそっと触れると白い花弁がぽろりと地に落ちた。リシュアは何か罪を犯したような後ろめたい気分になって、落ちた白い花をじっと見つめ続けた。
 しばらくそうしていたリシュアだが、ふと遠くに人の気配を感じた気がした。顔を上げると目の前に寺院の塔があり、こちらに向かって影を落としている。この寺院に来て間もない頃に司祭の歌声を聞いたあの塔だ。リシュアはそちらに向かって歩き始めた。あの霧の夜は塔が生きているかのようでそれ自体から不思議な気配を感じ取れたのだが、今日は冷たい石のまま無機質な顔で空へ向かって聳え立っている。
 塔は礼拝堂と渡り廊下で繋がっている。しかしその他にも古い木の扉があった。おそらく昔は独立した1つの建築物だったのだろう。
 扉をそっと開けると短い廊下があり、その先に塔の内部が広がっている。中は煙突のように空洞の筒状になっており、石壁の内側にやはり石でできた螺旋階段が渦を巻いている。中は意外と広い。石畳には真ん中に細密な文様の赤いラグが真っ直ぐに敷かれ、その外側を黒い鉄製のシンプルな蝋燭立てが等間隔に縁取っている。その先には古い祭壇があった。大きな石を切り出したような時代を感じさせるその祭壇は塔の中でも最も古いようで、丸く削れた角や擦り切れた細工が半ば朽ちているような印象を与えていた。
 祭壇の前に人が立っている。リシュアは息を呑んだ。
 暗い塔の中でそこだけ月(リュレイ)の光を照明のように浴びて、司祭がひとり立っている。青い光の下でその髪は菫色に輝いて見えた。静かに、静かにリシュアは司祭の背に歩み寄った。手を伸ばせば届きそうな距離で立ち止まると、司祭は初めてリシュアに気づいたように少し驚いた顔で半身を彼に向けた。
 リシュアの胸がどきりと音を立てた。司祭の瞳から一筋の涙が流れている。
 司祭はすぐにまた背中を向けた。ローブの袖で顔を隠して一歩距離を置く。
 「何か御用ですか」
 咎めるような声は涙声だった。思いがけない司祭の様子にリシュアは動揺を隠せなかった。
 「いえ、すみません」
 無礼を詫びるように視線を逸らしたまま姿勢を正した。
 沈黙が続く。リシュアは胸の痛みを感じていた。司祭の涙はとても美しかったが、もう見たいとは思わなかった。ふと手を伸ばそうと少し持ち上げたところで、アンビカの言葉が頭を過ぎった。
 「いい? 絶対に不埒な考えを起こすんじゃないわよ!」
 上げかけた手が止まった。じっと見つめた手をぐっと握って再び下ろし、リシュアは半歩後ろに下がった。
 半歩、1歩、2歩。
 そうしてくるりと背を向けて無言でその場を逃げるように立ち去った。司祭も背を向けたまま動こうとはしなかった。
 そうするしかなかった。
 あと少しでもあのままあの場にいたら。1歩でも近づいたら。彼は司祭を抱きしめてしまっていただろう。リシュアは迷いを振り切るように早足で警備室に戻った。
 警備室ではユニーがソファに座ったまま居眠りをしていた。本来交代で眠ることになっているのだが、リシュア自身も勝手に出かけていたのだから咎めることはできない。ちょっと苦笑してユニーに毛布をかけてやると、コーヒーを煎れ始める。今日はもう寝るのは諦めることにした。
コーヒーを飲みながらリシュアは夜を明かした。図書館で借りてきたルナス正教の本を2冊読み終える頃、ユニーがもぞもぞと動き始めた。
 「おかあさん、水―……」
 リシュアは笑いをかみ殺しながらグラスに水を汲んでユニーの額に当てた。
 「!!!」
 初めは冷たさに、次は驚きに目をまんまるにして、ユニーは飛び起きた。
 「あ、あのっ、中尉! これは、ど、どうも」
 茹でたザリガニのように真っ赤になって上司の手からグラスを受け取り、一気に飲み干す。ちょっとむせた後、大きく息を吐き出して上目遣いにリシュアを見やった。
 「ちょっと出かけてくる。交代のやつらが来たら帰ってていいぞ」
 ユニーは両手でグラスを持ったまま黙って小さく頷いた。リシュアは目を細めて笑うとユニーの肩をぽんと叩いて部屋を出た。
 
 
 
 時間通りに旧市街に着いた。車が普及する前の街並みのため、旧市街には車を置く場所が極めて少ない。細い石畳の道の両側の、更に細い歩道に乗り入れるように違法駐車の車の列が続いている。中には冗談のように前の車のバンパーに乗り上げている車や、ぴったりと横に2列に停められた車まである。どうやってあそこから抜け出すつもりだろう。
 そんなことを考えながらリシュアはカフェのテラスでコーヒーを飲んでいた。すると向こうから小走りに近づいてくる青年の姿が見えた。
 オクトだ。
 柔らかい黒髪を風に乱したオクトは、少し息を弾ませてリシュアのテーブルに駆け寄ってきた。
 「……すまない。車を停めるところを探していたら遅れてしまった」
 「気にすんな。慣れないヤツはみんな苦労するんだ」
 愉快そうに笑いながらリシュアは上着を脱いで汗を拭う友に椅子を勧めた。黒い服に身を包んだ上品なウエイターが水を運んで来る。
 「同じものを」
 爽やかに微笑んで告げると、オクトは上着をウエイターに預けて椅子に腰掛けた。
 「私服の方が良かったかな」
 掛けられた上着の中でやけに異彩を放つ自分の軍服を見ながらオクトはリシュアに囁いた。
 「いや、どうせ身元を明かさなければいけないんだ。分かりやすくていいだろ」
 答えるリシュアはどうでもいい、といった風だ。しかし実際周囲の視線をかなり集めているのは確かだった。少し落ち着かない様子でオクトはシャツのボタンを緩めた。
 「で、今日はどこに行くんだ?」
 リシュアの問いにオクトは水を一口含んでから答えた。
 「うん。まずは被害者の周りから調べようと思ってね。今日は近所の人間に話を聞く。仕事の関係者にはもうアポはとってあるがそれは来週になるな」
 ふうん、と呟いてリシュアはオクトが差し出した関係者のリストを流し読んだ。
 「そっか、被害者は銀行員だったな。旧市街の銀行は貴族が資本を握ってるから厄介だなあ。……ルオーク通り3番地。いいところに住んでやがる」
 そうして、ぽい、とテーブルにリストを投げるとコーヒーを飲み干した。
 「まあ、知らない場所じゃないが、あんまり俺に期待するなよ」
 オクトは運ばれてきたコーヒーに口をつけ、微笑んで頷いた。
 「言ったろ? 一緒に行動してもらえるだけで心強いんだ。ここは新都心とはまるで勝手が違うからな」
 「違いない」
 二人はあちこち凹んだ古い車が縦列駐車された無法地帯を眺めて苦笑した。
 「それに」
 オクトはリシュアをまぶしそうに見つめて言葉を継いだ。
 「なんだかこうしていると昔を思い出さないか? なあ、死神将軍」
 その言葉にリシュアは複雑な顔をした。
 「あの頃は良かった、とは言えないが、今ほど退屈はしていなかったかな。……戦場で死んでいった奴らには叱られそうだがな」
 オクトは神妙な顔になり、頷いた。暫く沈黙が続く。
 「奴らが身を賭して得た平和の結果がこんな猟奇事件だなんてことにはさせない。出来る限りの協力をするよ」
 リシュアは柄にもない、と自嘲しながらもそう友に力強く語りかけた。オクトは少し表情を緩めて僅かに笑った。
 「ああ、有難う」
 「礼には及ばんさ。お前にはしっかり偉くなって俺を楽させてもらわないといかんからな」
 にやりと笑ってみせるリシュアの言葉にようやくオクトは声を出して笑った。

 

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