風が吹く前に 第2部 (14)                       目次

「そうねえ。余り話したことはなかったけど、会えば挨拶をしてくれたし。いい人だったんじゃないかしらねえ」
 恰幅のいい50代後半くらいの主婦がプランターに水を撒く手を休めて答えた。
 「ゴミもちゃんと決まった日に出してたし、ほら、もう見た目がいかにも真面目そうでねえ……」
 そこまで言って、彼女はオクトに顔を近づけて声をひそめてたずねた。
 「ねえ、おかしな死に方をしたって本当? 新聞にも何も書かれてないけど、何か秘密なの? なんだかトーラスさんて不思議な力があったそうじゃない?」
 オクトは困ったような顔で申し訳なさそうに答える。
 「すみません奥さん。私たちもあまり詳しくは聞かされていないんですよ。なにせ下っ端なものですから」
 すると女性は急に興味を失ったように、あらそう、と呟いて冷ややかなまなざしをオクトに向けた。リシュアはオクトが意外と嘘が上手いことに感心してそのやりとりをぼんやりと見つめていた。
 先ほどから近所を聞いて回っているが、有効な手がかりになりそうな話はまだ何も聞けていない。この旧市街での異能者によると思われる被害者――トーラス=ヘインは近所では特に目立ったところの無いつまらない男として知られているだけのようだ。リシュアも何かの役に立てればと街で見知った顔を捜したが、ルオーク通りは最近治水工事のついでに街並みの大部分が新しく生まれ変わり、古くからの住民は姿を消してしまっていた。リシュアが馴染んだ住人や店は跡形もなくなっている。軽い失望を感じながら通りの向こうに目をやると、小奇麗なカフェの前を箒で掃除する初老の男が目に入った。
 「……フィナックおじさん?」
 リシュアの声は届かないようで、男は無心に掃除を続けている。リシュアは小走りに近づいて、そっと男の肩に手をかけた。
 「おじさん。フィナックおじさん。久しぶり!」
 男は怪訝そうに顔を上げて、首に提げていた眼鏡をかけるとじろじろとリシュアを上から下まで眺め回した。しばらくそうして見つめた後、苦い表情がふと驚きと喜びのそれに変わる。
 「……坊! カスロッサの坊じゃないですか!」
 「ああ、覚えててくれたか。久しぶりだな。元気だったかい?」
 男は昔からこの通りでパン屋を営んでいたリシュアの顔馴染みだった。幼い頃コインを握り締めてはよく彼の店でマフィンを買って友達と食べたものだった。
 「すっかり店が綺麗になっちまって、分からなかったよ。ここも随分と変わったなあ」
 「道路を広げるっていうんで、店を移動する代わりに国から補助金が出ましてね。娘婿夫婦がこんな洒落た店を始めたんですよ。……しかし坊もすっかり立派になられて」
 嬉しそうに顔を綻ばせながらフィナックはリシュアの手をとって上下に激しく振った。皺の深い厚みのある職人の手はリシュアの心をひどく和ませた。
 「ささ、奥へどうぞ。坊の好物のマフィンとお茶でも差し上げますから」
 手を引かれて、リシュアは通りの向こうで聞き込みを続けているオクトを振り返った。
 「……友達も一緒なんだが、呼んでもいいかな?」
 「ああ、もちろんですよ。どうぞどうぞ」
 そう言うとフィナックは話の途中でテーブルに立てかけた箒も忘れてそそくさと店の奥へと消えていった。
 オクトを連れて店に入ると、そのいでたちに一瞬顔を強張らせたものの、フィナック親子はリシュアの友人を暖かく迎え入れてくれた。オクトも丁寧に礼を述べて一番奥の落ち着いた席に腰を下ろした。
 「友達が事件の捜査をしているんで、手伝っているのさ。何か知ってたら聞かせて欲しいんだけどな」
 そう言ってリシュアはお茶と菓子を運んできたフィナックにトーラス=ヘインの事件の概要を説明した。フィナックは信用できる男だ。リシュアは被害者の異様な死に方も含めて話せることは全て伝えた。聞き終わるとフィナックは深くため息をついて、壁際から古びた木製の脚立を引っ張ってくるとそれに腰掛けた。
 「いやね、実はトーラスさんはうちのお馴染みさんでね。結構親しくさせてもらっていたんですよ」
 オクトとリシュアは顔を見合わせ、再びフィナックに向き直った。
 「何でもいい、何か気がついたことがあったら教えてくれないか?」
 フィナックは最初少し言いよどんでいた風だったが、しばらくじっと何か考えた後にぼそりぼそりと話し始めた。
 「まあ、ウワサになっているんでお分かりかと思うんですが、トーラスさんはなんというか勘の働く人で。占いなんかもよくやってらっしゃったんです。私も病気を知らせてもらって大事に至らなかったことがありましたっけ。……まあ、普通の人間ではなかったんじゃないですかねえ。だからこそ普段は目立たないようになさってたみたいです」
 そこまで話して、フィナックは二人にお茶と菓子が冷めないうちにと勧めた。二人は食べながら話の続きを聞くことにした。
 「最近トーラスさんは夜眠れないと言ってました。新月が近づくと頭の中で声が聞こえて眠れないんだ、って」
 「声……新月……」
 オクトが唸るように呟く。
 「確か死体が見つかったあたりも新月の頃じゃなかったか?」
 リシュアの問いかけにオクトは無言で頷いた。
 「呼ばれているような気がしておちおち眠っていられないんだ、とこぼしていらっしゃいました。夜の散歩が増えた、とも」
 「夜の散歩……か。あの日真っ直ぐ帰らずに公園に行ったのもそういうことなんだろうか。あの足取りが謎でもあったんだが」
 オクトは何か納得したように頷きながらメモを取っている。なんだかオカルト映画の吸血鬼のようだ。とリシュアは思った。情報が増えれば増えるほどに話が非現実的になってくる。オクトは質問を続けた。
 「ところでトーラス氏は、なにか宗教かクラブのようなものに所属しているふしはなかったかな」
 イリーシャのことか、とリシュアは少し表情を硬くした。フィナックも少し顔を曇らせた。この様子だと何か心当たりがあるのだろう。
 「……金曜の午後によくラスクやクッキーなどをたくさん買って行かれることがありました。お茶会のようなものだ、と言っていましたが。その集まりについては一切話してくれなかったので却って印象に残っています」
 ふうん、と難しい顔でオクトは考え込んだ。同じ事を考えているのだろう。やはりオクトの予想通りトーラスは異能者で、イリーシャに所属していた。そう考えるのが妥当かもしれない。では犯人はやはりイリーシャなのか。しかし情報はそこまでで、後はフィナックも良く知らないという。今日はここまでか、と夕暮れの通りを眺めてからフィナック親子に礼を言うと再会の約束をして店を出た。 
 オクトが車を停めたところで別れを告げると、友は感謝の笑みを浮かべてリシュアの両手を固く握った。
 「今日は本当に助かったよ。予想以上の収穫だ。どうやら俺の予想はそんなに間違ってはいないと思う。……だよな?」
 リシュアは笑顔で頷くとオクトの肩をポンと叩いた。
 「役に立ててほっとしたよ」
 正直な気持ちだった。友の笑顔は何よりの褒美だ。リシュアは片手を上げてオクトの車を見送ると、寺院に向けて車を走らせた。
 
 
 
 寺院に戻るとすでにユニーの姿はなく、交代でアルジュとムファが任務に就いていた。
 「お帰りなさい中尉」
 ソファにごろりと横になっていたムファが慌てて立ち上がる。
 「ああ、いい、いい。休んでろ」
 リシュアは手をひらひらさせて、持っていた大きな紙袋をテーブルに置いた。もてなしの礼も兼ねてフィナックの店から大量に買ってきたマフィンだ。リシュアはそこからいくつかを選んで皿に載せた。
 「後は適当に食っていいぞ」
 「頂きます」
 にこやかにムファは紙袋に手を突っ込み、アルジュも興味をそそられたような顔で近づくと中を覗き込んだ。そんな二人を残して、皿を手にリシュアは警備室を後にした。
 キッチンからトマトを煮込むようないい香りが漂っている。ドアを開けるとイアラが鍋をかき回していた。
 「いい匂いだな」
 そう言って笑顔を向けるとイアラもにっこりと頷いた。
 「今日は自信作よ。子羊を煮込んだシチューなの」
 オーブンではもうすぐパンが焼きあがるようだ。イアラは手早く準備を進める。
 「これ、旧市街に行った土産だ。お前のマフィンもうまいけど、たまには他人が焼いたのも悪くないだろ?」
 皿を差し出し、被せてあった布をめくるとイアラの顔が輝いた。
 「あら、美味しそうね。有難う」
 予想以上の反応に気をよくしたリシュアはにっこりと笑って頷くと踵を返して部屋を後にしようと歩き出した。
 「あ、待って」
 呼び止められて足が止まる。
 「ねえ、良かったら一緒に夕飯はいかが?」
 「……いいのか?」
 驚いたようにたずねるリシュアにイアラは嬉しそうに頷いてみせる。
 「今日は特に上手に出来たから、食べてもらいたいかな。それに司祭様もきっと喜ぶわ」
 どちらかというと後半の言葉に心が躍った。そう言われては断る理由などない。
 「じゃあ、喜んでお言葉に甘えようかな。……何か手伝うよ」
 「ありがと。じゃあそこのお皿を並べてくれる?」
 数人分の皿の並ぶ家庭の食卓は久しぶりだ。それに実家では食事の準備はメイド達がしていたので、このような経験はほとんどなかったかもしれない。リシュアは心が温かくなるのを感じていた。
 「あーっ! 腹へったあああああ!」
 賑やかな声と共にバタン、と大きくドアが開く。ロタが大またでキッチンに乱入してきた。顔を洗った後らしく、タオルを頭から掛けている。皿を並べ終わってグラスを運んでいるリシュアと目が合い、一瞬動きが止まる。
 「……なんだお前」
 「お前こそなんだ」
 相変わらずのやりとりは最早挨拶代わりだ。イアラはくすくすと笑って焼きあがったパンを盛った籠をテーブルに運ぶ。
 「今日はお客様が居るんだから上品に食べないとだめよ、ロタ」
 そうして、壁の時計に目をやると時刻は丁度6時半になるところだった。
 「そろそろ司祭さまがいらっしゃるわね」
 その言葉を待っていたかのように静かにドアが開いた。リシュアは体を硬くして動きを止めた。足音もなく司祭がキッチンに姿を現した。
 「お疲れ様イアラ……」
 リシュアの姿を認めて、ちょっと小首を傾げる。司祭はよくこの仕草をするが、どうやらこれがくせのようだ。愛らしい仕草だとリシュアは思った。
 「お邪魔しております」
 「司祭様。中尉からお菓子を頂きました。折角ですので夕食にご招待したのですが宜しかったでしょうか」
 イアラの言葉に司祭はふわりと微笑んで静かに頷いた。
 「勿論です。食事は大勢で頂く方が楽しいですから。中尉、是非ご一緒して下さい」
 嬉しい誘いにリシュアは心から礼を言い、司祭の椅子を引く。楽しいゆうげの始まりだった。

 

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