風が吹く前に 第2部 (15)                       目次

皿に分けられたシチューからは美味しそうな香りと湯気が立ち上っている。司祭に倣って皆がお祈りをした後に、スプーンで掬ってそれぞれが口に運んだ。子羊の肉は柔らかく、野菜とハーブの深い味わいが広がる。見た目は家庭的だが、その味は老舗のレストランにも引けを取らないだろう。
「こりゃあうまいな」
思わず唸ると、イアラは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「自信作だもの」
香ばしい焼きたてのパンはしっかりとしたライ麦入りの生地で、シチューによく合う。裏庭で育てたリーフやハーブのサラダは取れたてをよく冷やしてある。柑橘系のドレッシングもイアラの手作りだろう。豪華ではないが実に温かみのある食卓だ。
「イアラは本当にお料理が上手ですね」
司祭がシチューを口に運ぶ手を休めてにっこりと微笑む。
「ありがとうございます司祭様。……うちは肉屋だったの。店で色んな惣菜も売っていて、父さんから作り方を教えてもらったのよ」
そういえば彼らの生い立ちなどを詳しく聞いたことはなかった。
「二人とも内乱で親とはぐれたんだっけ?」
二人は顔を見合わせてから、それぞれの生い立ちを語り始めた。イアラはもともとは旧市街の出身だが、父親が新しく店を出した国境近くの町で内乱にあい、親と生き別れになってここに預けられたということだ。ロタは戦地になった故郷の村が焼かれて、乳飲み子を抱えたロタの父が寺院にお世話になる代わりに庭師をやっていたそうだ。その父親が病気で早くに亡くなり、あとはロタが一人でこの庭を管理している。
「大変だったんだな、お前たちも」
内乱はこういう子供たちの人生をも大きく狂わせてきた。自分は進んで戦場に身を置いたが、彼らはただ巻き込まれただけなのだ。
「でも、こうして司祭様にお会いできたんだもの」
イアラは、驚くほど真っ直ぐに輝く眼でリシュアを見返した。ロタも満足そうな笑顔で頷いた。それを聞いた司祭はちょっと驚いたような、そしてとても嬉しそうな顔になる。
「イアラ……ロタ」
彼らは幸せそうだった。ただ一緒に居るということがなによりも大事だというように。そしてその中心にいるのが、司祭なのだ。彼らの本当の家族のような絆はこうして日々積み上げられているのだろう。リシュアはこの場に仲間として招かれていることを改めて心から嬉しく思うばかりだった。
食事の後に司祭が皆に紅茶を煎れた。イアラとロタは食器を片付けている。リシュアも手伝うと言ったのだが、今日はお客様だからと言われて席について司祭の姿をぼんやりと眺めていた。
ふと気が付けば二人きりになっていた。急にリシュアの頭に昨日の夜のことが蘇ってくる。あの涙は一体なんだったのだろう。テーブルを挟んで、リシュアは司祭の俯く顔をじっと見つめた。食事の間に見せた幸せそうな表情から昨日の涙は到底連想できない。あれが夢か幻であったのでは、と思うほどだ。
視線に気づいたのか、司祭がふと顔を上げた。二人の目が合う。リシュアは気まずさと恥ずかしさが入り混じり、目を泳がせた後少し赤くなってだらしなく笑い返した。そして自分が浮かべているであろう間抜けな表情を想像して少し気が滅入ってきた。司祭の表情はまるで揺るがない。僅かに穏やかな笑みを浮かべているだけだ。リシュアは逆にそれが気になった。いつもあの微笑みを浮かべて穏やかに佇んでいる司祭。だがその心のうちは誰にも……きっとイアラやロタにも明かしてはいないだろう。それはきっと司祭の心に建てられた壁なのだ。誰も傷つけない代わりに誰も寄せ付けない、そんな柔らかな鎧なのだ。果たしてそこに自分は踏み込むべきなのだろうか。それが司祭を傷つけることになるのではないか。色々な思いが入り混じって収集がつかなくなり始めた頃、賑やかな話し声と共にイアラとロタが戻ってきた。
食事が済んで、最後のお茶を飲みながらの談笑も一区切りついたところでそれぞれが部屋に戻っていった。リシュアも家に帰ろうと椅子から立ち上がりながら暇乞いをしようとした時だった。司祭の口から意外な言葉が出た。
「これから部屋でワインを頂くのですが、ご一緒にいかがですか?」
部屋でワイン。それだけでリシュアの心臓は跳ね上がりそうだった。まるでうぶな学生のようだと我ながら呆れながら、その動揺を悟られないように平静を装って笑顔を作る。
「ワインですか、いいですね」
「降星祭で振舞うものを選んでいるのですが。皆さんもお誘いするので、お好みを伺えれば嬉しいです」
ああ、そういうことか、と僅かに落胆しながらもその誘いが嬉しいことに変わりはなかった。
 「喜んでご一緒します」
 にっこりと微笑んで軽くお辞儀をしてみせる。司祭は楽しそうに笑って招くように先を歩き始めた。
 司祭のプライベートな空間にはいくつか部屋がある。その中のリビングのドアを開けて、司祭はリシュアを招きいれた。少し緊張の面持ちでゆっくりと入室し、ぐるりと見渡した。
 あまり広くはないが、快適そうな部屋だった。落ち着いたローズブラウンとオフホワイトを基調にした柔らかなイメージの内装。家具も豪奢な細工のものはなく、シンプルな色使いの上品なものをシリーズで揃えてある。ほっと寛げる、そんな空間だった。リシュアはこの部屋がとても気に入った。
 勧められるままにソファに腰を掛け、目の前に置かれたワインの瓶のうち1本を開ける。
 「これは全てこの寺院で作ったものです」
 あの葡萄畑の葡萄を司祭達が自分達で毎年ワインにするのだそうだ。それはこの寺院の古くからの伝統らしく、中にはかなりの年代物もあるという。
 「ですが、お祝いには私が作ったものからご用意しようと思っております。その年によって味わいが違いますので色々とお試しになってみて下さい」
 グラスを運んできた司祭は柔らかな笑顔をリシュアに向けた。はじめは夜二人っきりで一緒にアルコールを口にするということに動揺を隠せなかったリシュアだったが、いざこうして向かい合わせで座ると、これがとても自然なことのように思えてきた。二人は微笑みながらグラスを合わせワインを口に含んだ。とても上品で柔らかく、甘味も適度にあって飲み易い。
 「とても美味しいですね」
 リシュアの言葉に司祭はほっとしたような笑顔を向けた。
 「ああ、お口に合われたのでしたら良かったです。ではこちらも……」
 司祭は次々と瓶の口を開けていく。リシュアは目を丸くした。
 「あ、あまり開けては……」
 しかし司祭は微笑んだまま違うグラスに別のワインを注ぎ始めている。
 「どうぞご遠慮なさらないで下さい。ゆっくりお飲みくださればいいですから」
 そう言ってすいとグラスを静かに空けた。リシュアはそのグラスに先ほどのワインを注いだ。司祭は嬉しそうににっこりと微笑み、またグラスに口をつけた。
 美味しいワインも手伝って、気分良く会話が弾んだ。リシュアも傭兵時代の話で楽しく話せるような話題を選んで色々と話して聞かせた。異国の戦線での屈強な男たちの友情の話は司祭の興味をそそったようで、ひどく感心して聞き入っていた。司祭も日常の話から、ふと昔の家族との話がぽろりとこぼれ出た。小さな白い馬を飼っていた話。王宮の庭にもサキアラが咲いていた話。とても懐かしそうに話しては、カップボードに目をやった。リシュアもそちらに目を移す。そこには彼が持っていたものと同じ例の皇帝一家の写真が置かれていた。
 「あ……」
 思わずリシュアは近づいてその写真を見つめた。ずっと飾られていたためか、リシュアが持っているものよりもかなり褪色して、ほとんどモノトーンのようになっていた。
 「私の家族の写真です」
 知らないと思ったのだろう。司祭は遠くを見つめるような目で一言そう告げた。一瞬迷った後、リシュアは思い切ってたずねてみた。
 「では、この椅子に座った愛らしい子が司祭様なのですか?」
 長い沈黙。振り返りたくなるのをリシュアはぐっと堪えた。するとさらに時間を置いた後、静かに司祭は告げた。
 「……はい。それが私です」
 どっと汗が出るのをリシュアは感じていた。しかし動揺を悟られてはいけない、そう思い息を殺して写真を見つめ続けた。
 「可愛らしい格好をされているのですね。まるで……女の子のようです」
 思い切って、そう言った。胸が早鐘のように鳴る。司祭は気を悪くするだろうか。また心を閉じてしまったりはしないだろうか。
 しかし返ってきたのは意外な言葉だった。
 「そう思われますか? では今の私は中尉にはどう映りますか?」
 思わず振り向いた。司祭は困ったように微笑んでいた。
 「……あの……」
 もう動揺は隠せなかった。司祭の目を正視できずに俯いて頭を掻く。
 「……すみません、その。正直に申し上げますと……。私には分からないのです」
 司祭の微笑みは動かない。リシュアは少し安心して言葉を継いだ。
 「実は、初めてお会いした時、失礼ながらあなたを尼僧と間違えていました。今でも時々そうなのではないかと見紛うことがあります。もうご自分でもお気づきかとは思いますが、あなたは……とてもお美しいので」
 耳まで赤くなっていたのはワインのせいだけではないはずだ。まるで愛を告白したかのように鼓動が早くなっている。早く何か答えてほしい。背中に汗が流れるのを感じながらリシュアは司祭の言葉を待った。
 司祭は少し照れたように微笑んだ。
 「それは有難うございます。ですが過分なお言葉です。……そしてあなたの予想はそう間違いでもないのです」
 勿体ぶった言葉の進め方は普段ならいらつくところだが、今はただただ言葉の先が知りたいだけだった。
 「それは……つまりどういうことなのです? お願いです。はっきりと教えてください」
 懇願するようなリシュアに、司祭も迷いを断ち切ったように頷いた。
 「はい。……簡単に言えば、私は男性でも女性でもないのです。私の体は先天的に性別を表すものを持たないのだそうです」
 意外すぎる答えにリシュアは言葉を失った。どちらかがはっきりするかと思えば、どちらでもない、とは。
 「ですから、はじめ私は女の子として育てられました。軍との関係が悪化しており、更に王位継承の争いも水面下で激しくなっていた当時は男児として育てば命の危険があったからです。ですがクーデターが起きてカトラシャ寺院とルナス正教を守るものがいなくなることを恐れた元老院の方々の意見で私は男児ということにされて司祭としてここに留まることになりました。そのおかげで両親と一緒に事故に遭わずに済んだのかもしれません」
 一気に話してから、司祭はリシュアを覗き込むように小首を傾げてじっと見つめた。
 「余計な話を致しましたか? 不愉快に思われたのでしたら忘れてくださいませ。私はこのように普通の身体ではありません。気味が悪いとお思いになられたでしょうか」
 寂しげに司祭は小声で尋ねた。
 不安だったのは司祭のほうだったのだ。リシュアは胸が締め付けられる思いだった。隠し事をされているわけでも拒絶されているのではなかった。逆に司祭は自分が普通と違うことを打ち明けられずに、いつも不安を抱えていただけなのだ。話したくても、その結果人が離れていくかもしれないと敢えて孤独を守っていたのだろう。
 「少し不思議で、とても素敵なことだと思います。でも司祭様が司祭様であることに変わりありません。打ち明けてくださったことを心から嬉しく思います」
 涙が出そうだった。思わず近寄って手をとる。そしてにっこりと満面の笑みを浮かべてそっと手の甲にキスをした。

 

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