風が吹く前に 第2部 (16)                       目次

 司祭はリシュアに手を取られたまま、少し驚いたような表情で彼の動きを見つめていた。自ら打ち明けたのも初めてのことだったが、それにしても彼の反応はまるで予想外だった。思えば意外なことばかりだ。初めて出会った時から司祭はリシュアに対して実に厳しい態度で接した。理不尽とも思えるその仕打ちに本来なら腹を立ててもおかしくないだろう。憎まれても仕方の無いことをしたと司祭自身よく分かっている。それなのに、彼は常にその鋭い態度を柔らかく受け止め、誠意を持って返してくれた。今更口には出さないが、そのことに対して司祭はいつも感謝の気持ちを持ち続けている。
 「受け入れてくださるというのですか?」
 戸惑い気味に司祭は問いかけた。リシュアは何も言わずに顔を上げるとにっこりと優しく微笑んだ。司祭は胸にこみあげてくるものを感じて、彼の手をそっと握り返した。
 「さあ、飲みなおしましょう。これだけあるのですから気合を入れて飲まないといけませんよ」
 少しおどけたように言ってリシュアは司祭の肩に手を添えソファへと促した。
 
 
それから数日は何事もなく過ぎ去った。1週間の休みを終えて、清清しい顔のビュッカが旅行から戻ってきた。
「留守中有難うございました。おかげさまで有意義な休暇を過ごせました」
丁寧に礼を述べてからビュッカは品のいい包装紙をかけられた箱を上司に差し出した。
「ユニル産のモルトウィスキーです。きっとお好きだと思いまして」
「おー、悪いな。土産なんか気にせず楽しんでくればよかったのに。……だがこりゃあ嬉しいな。遠慮なく頂いておくよ」
リシュアは嬉しそうに箱をかざして眺めた。その様子にビュッカも満足したようだ。
「お土産を選ぶのも旅の醍醐味ですから。お気に召して頂けて何よりです」
あとはそれぞれ仲間たちに土産を渡していった。アルジュにはキルムの伝統工芸の象嵌細工が施された万年筆。ムファにはリベール地方の民族音楽のレコード。ユニーには岩塩チョコとナマズのぬいぐるみ。どれも好みを熟知した心のこもった品だった。紅茶を飲みながら土産のクッキーを齧って旅の話を聞いた後、解散の前にリシュアが皆に告げた。
「司祭様から葡萄の感謝祭の食事会に招待されてるんだ。来月の新月の夜だから……第2木曜か。なるべく予定を開けておいてくれるか?」
皆、一瞬動きが止まった。そして互いに無言で顔を見合わせる。そしてそのまま暫く沈黙が続いた。リシュアは少し不安になった。やはり皆はまだまだ司祭に対してわだかまりか解けていないのだろうか。
しかしその心配は無用だった。
「えー! いいんですかあ? やったあ!」
「有難いお誘いですね。我々がお邪魔しても本当に宜しいので?」
「僕も喜んで参加したいと思いますよ」
「念願のイアラちゃんのご馳走にありつけるのか! あれ、旨そうだもんなあ」
わいわいと嬉しそうな部下たちを見てリシュアは顔を綻ばせた。彼らも司祭と打ち解ける機会を待っていたのだ。
「お前たち、行儀よくするんだぞ」
リシュアが苦笑まじりにそう言うと、4人は「はい」と目を輝かせた。
 
 
 
旧市街の銀行は新都心のそれとは大きく趣が異なる。どっしりとした石造りの建物の入り口には富を象徴する葡萄の木の彫刻が施され、内部は厚みのある絨毯と煌びやかなシャンデリア、良質の厚手の木材を使った木造りの壁。有名な画家の手によってルナスの黎明の風景が描かれた油絵など、とても重厚な雰囲気だ。
最近実家などに出入りして慣れてきたとはいえ、どうにもこの手の装飾が趣味ではないリシュアはげんなりとした様子で赤いビロードのソファに長身の体を屈め、膝の上に頬杖をついたまま座り込んでいた。
「お待たせ。今なら都合がいいから話せるそうだ」
奥からオクトが姿を現しリシュアを招いた。今日は例の事件の被害者、トーラス=ヘインが勤めていた銀行の責任者という男から話を聞くことになっていた。
カウンターの中の事務室を通って奥の廊下から応接室に通された。古風な黒いスーツにえんじ色のタイをした女子行員が紅茶を置いて去っていく。それと入れ違いに一人の青年が姿を現した。
「お待たせしました」
オクトとリシュアは立ち上がってその青年の背後に目をやった。しかしそこには人の姿はなく、流行りのスーツに身を包んだ人当たりの良さそうな25,6くらいの青年が一人微笑みを湛えて立っているだけだった。
「アウシュ銀行相談役のルドラウト=キルフです」
青年は厚手の良質な紙に銀行のロゴが箔押しされた名詞を差し出した。
「相談役……?」
二人は状況が飲み込めずに受け取った名刺と青年を見比べて怪訝な顔をする。この若さでこの大手銀行の相談役というのも意外すぎるが、支店への取調べに相談役がわざわざ出てくるのも不自然だ。
「まあ、どうぞお掛けください」
柔らかな微笑みでソファを勧め、自分も腰掛けた。女子行員が青年のお茶を運んでくる。それにも優しく微笑みかけて「ありがとう」と声をかけ、オクトとリシュアにもお茶を勧めた。柔和で人当たりがよく自然体のこの青年が、リシュアはどうにも気になった。その穏やかなオリーブ色の瞳の奥に隠しきれない狡猾さが感じられるように思えるのだ。
「ああ、分かりますよ。私のような若造が責任者として出てきたのがお気に召さない、と。そういうことですね?」
いきなり核心を突かれた。回りくどく攻め落とさなければならないかと覚悟していたリシュアは拍子抜けしてしまった。
「まあ、そういうことだ。それに、こちらは課長か次長あたりが出てくると思っていたからね。いきなり相談役とは随分丁重なあつかいだな」
遠慮は無用とばかりにざっくばらんに話しはじめた。青年はそんなリシュアの様子に嬉しそうに目を細める。
「軍はお堅い方々ばかりと聞いていたが、これなら腹を割って話せそうですね」
「銀行員は融通が利かない奴らかと思ったが、あんたは話が分かりそうだな」
キルフとリシュアはお互いに可笑しそうに顔を見合わせて笑いを漏らした。オクトはそんな二人のやりとりを呆れたように見つめている。
キルフが膝に手を置いて、少し身を乗り出して声をひそめた。
「トーラス君が普通の事故死ではないことは聞いています。なにやら怪しげな集団に属していたかも知れないという話もね。私は銀行のイメージのためにも、変な噂が広まる前に事件が解決してくれることを願っているんですよ」
「なるほど。銀行はイメージと信用が第一、ってことか。そこで血相変えてあんたが出てきたわけだ。しかしお偉方が出てきても事件の解決には役に立たないんだ。実際にヘインの交友関係なんかを知る人間じゃないとね」
そこまで言ってリシュアはさすがに言葉が過ぎたかと少し身を引いた。オクトは苦笑してそんなリシュアにちらりと目をやる。しかしキルフは一向に気にしないようで、静かに頷いてから言葉を次いだ。
「そこはお手数をかけないように内々に調べました。こちらの資料をお使いください。彼の社内での交友関係と、分かる限りのプライベートの付き合いを調べたものです。彼に対する社内の評価も全て揃えてあります」
キルフは前もってテーブルに置かれていた封筒からタイプされた書類を出し、オクトに手渡した。
「随分と準備がいいな。これは手間が省けていいが……これはどこまで信用できるのかな? 銀行のイメージを守るために真実を隠しているかもしれない可能性は?」
リシュアは素直に疑問をぶつけた。しかしキルフの微笑みは揺らがない。
「その場しのぎの嘘はすぐに露見します。そして確実に身を滅ぼします」
真っ直ぐに見つめる瞳に偽りは感じられない。オクトは頷いて資料を開いた。
「ここまで調べて頂いているなら、今日はもうお手間は取らせません。これを持ち帰って検証してみて、なにかあれば後日ご連絡します」
立ち上がり笑顔で握手を求めると、キルフはにこやかにその手を握り返した。
礼を述べて銀行を後にし、並んで歩きながらリシュアは唸るように言った。
「ルドラウト=キルフか。ルドラウト……この辺の人間じゃないな。北からの移民か? それにしては閉鎖的な旧市街の銀行に入り込むのは容易じゃないはずだ。何者なんだろう」
「最近は旧市街にも北からの資本が流れてるらしいからな。どこかの御曹司が出向してきてるんじゃないのか?」
「そうかねえ」
普段慎重なオクトにそう言われると、自分が少々気にしすぎであるようにも思えてくる。今は事件に集中することが大事だ。リシュアはすぐに頭を切り替えることにした。
「次の展開なんだが」
適当に立ち寄ったカフェで、先ほどの資料を広げながらオクトが会話の口火を切った。
「部下たちに今他の異能者の所在を洗わせている。不思議な能力を少しでも披露していれば噂になるだろうからな。大事なのは次の被害者を出さないことだ。先回りして警護し、犯人が現れれば逮捕する」
リシュアは頷いてカップを口に運んだ。旧市街のコーヒーは深煎りで濃いものが多い。丁度彼の好みの味だ。少し香りを楽しんでから、満足そうに熱い液体を喉に流し込んだ。
「何か目星はついてるのか? なんなら俺も手伝おうか?」
「……いいのか?」
オクトは資料から顔を上げた。
「いいも何も、ここまで関わってるんだ。それに寺院の方も部下が帰ってきて暇になったしな。」
「それなら助かる。こちらは人手が足りなくてね。それにお前に警護してもらえれば心強いよ」
オクトは嬉しそうに言って胸ポケットから手帳を取り出した。
「カタリナ=ルミナ。42歳女性。マジシャン。彼女の物を移動させるというマジックは「本物」じゃないかという噂がある。まあ、ここまではありがちな話だが、彼女にもまたイリーシャの影が見え隠れしているんだ。他にも候補はいるが、彼女が狙われる可能性は高い」
リシュアはふうん、と頷いてオクトの手元を覗くと、自分の手帳に素早くメモをした。オクトは少し不思議そうに友人の顔を覗き込んで付け足した。
「ちなみになかなかスタイルのいい美人の独身女性だということだぞ?」
「へえ……」
リシュアは手を止めることもなくメモを取り、ふと友の顔を見た。オクトは怪訝そうにこちらを見ている。
「ん? どうした?」
「いや。お前らしくもないなと思って。寺院に長く居すぎて禁欲が身についたのか?」
リシュアは初めてオクトの言いたいことを理解した。確かに今までの自分なら女性と聞いたら即座に美人か、独身かとたずねただろう。そんなことに興味を示さなくなった自分に少し驚いていた。
「まさか例の公爵のご令嬢に本気で入れあげてるわけじゃないだろうな」
やや的外れながらもそう遠くない指摘にリシュアは気まずそうに半笑いを浮かべてグラスの水を飲み干した。

 

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