風が吹く前に 第2部 (17)                       目次

寺院に戻り、リシュアはまずイアラの姿を探した。前回のマフィンが好評だったので、また買ってくると約束していたのだ。菓子の入った袋を手にキッチンへ向かう途中、彼は意外なものを目にした。
司祭が工具箱を抱えて佇んでいた。どこか途方に暮れたような表情をしている。しばらく何か考えた後、意を決したようにキッチンへと姿を消した。リシュアは心配になり後を追ってキッチンに入った。すると半開きの勝手口の前に、危なげな手つきでドライバーを持った司祭がドアに手をかけて立っていた。司祭は傍にあった脚立に上がると、蝶番のネジにドライバーをあてて回し始めた。錆付いて磨り減ったねじ山はドライバーを空回りさせるだけだ。司祭の足元は覚束無い。そのうちに、その細い体がぐらりと揺れた。
「危ない!」
思わず駆け寄って脚立から落ちかけた司祭の体を抱きとめる。細いが、意外に柔らかい。後ろから司祭を抱きかかえるような形になり、顔と顔が近づく。司祭はびっくりしたように目をまん丸にして固まったままだ。先に我に返ったリシュアは自分の顔がみるみる赤くなっていくのを感じていた。
「……大丈夫ですか」
照れ隠しに、とにかく平静を装ってそう声をかけた。司祭はまだ状況が掴めないようで、目をしばたたかせて小さく頷いた。そっと脚立から下ろしてやり、ふう、と一息ついた。
「何してらっしゃるんですか?」
思わず咎めるような声になったのは警護をする立場からだけではなく、なんとなく感じるやましさを誤魔化すためだったかもしれない。
「すみません」
司祭は少ししょんぼりとして俯いた。その姿が可愛らしいので思わず吹き出しそうになったが、すんでのところで堪えた。
「もともとこの勝手口は建てつけが悪かったのですが……。先ほど閉めようと思いましたら動かなくなってしまいましたもので」
「そんなことはロタに任せればいいではないですか。あなたの仕事ではありませんよ」
今度はなだめる様に語りかけた。司祭は暫く小首を傾げてもじもじしていたが、ぽつりとため息のように漏らした。
「二人は今買い物に出ています。私も少しずつこういうことを出来るようにしてあの子達の負担を減らしてやりたいのです」
なるほど、とリシュアは納得した。きっと司祭は前々からそう思っているのだろう。だが過保護なあの2人のことだ。司祭が何かやると言っても聞き入れられはしないのだろう。だからきっとこの留守をいい機会と思って一人で直すつもりだったのだ。そう思うとなんとも微笑ましい気分になった。
「最初から一人でやろうと思っても無理ですよ。私がやりますからまず見ていてください。やりかたが分かればそのうち出来るようになります」
そう言ってリシュアは落ちていたドライバーを拾い上げ、脚立に上った。司祭はぽかんとして見上げている。
「修理して頂けるのですか?」
「お安い御用です。危ないですから、離れて見ていてくださいね」
にっこりと微笑みかけ、作業に移った。蝶番に油を差し、ねじを締めなおしてドアの傾きを調節すると半開きだったドアはなんとか閉まるようになった。しかし以前からの引っかかりはそのままだ。時代を経たドアの木枠がもう歪んでおり、ドアにぶつかるのが原因だろう。
「ついでだ。これも直してしまいます。これは司祭様には無理ですし、危ないですからお部屋にお戻りになられて結構ですよ」
しかし司祭は動く様子を見せない。興味深そうにドアとリシュアを見上げ続けている。
「司祭様」
ダメ押しで声を掛けられて、ようやくしぶしぶと数歩後ろに下がる。リシュアはドアに向き直るとこっそりと苦笑した。一度締めなおした蝶番のねじを緩めてドアを木枠から外し、木枠に当たる部分を削ることにした。司祭はその作業の間中、好奇心旺盛な子供のように遠巻きに眺めていた。作業に集中しづらくはあったが、司祭の視線を受け続けていることは悪い気分ではなかった。二人きりの静かな時間はとても充実しているように感じられた。
「さて」
服の木屑を叩きながらリシュアは立ち上がった。
「これを取り付ければ終わりです。もう面倒な開け方をしなくてもいいはずですよ」
床に置いたドアを持ち上げようと手を掛けると、司祭が少し近づいてきてちょっと手を差し出した。
「お手伝いします」
リシュアは困って一瞬考え込んだが、懇願するような司祭の表情に根負けしてつい笑顔がこぼれた。
「じゃあそちらを持ってくださいますか?少しささくれがありますので気をつけて」
司祭は嬉しそうに頷くと、そっと白い手を置かれたドアの下に滑り込ませた。心配したものの、司祭はひょいと他愛なくドアを持ち上げた。
「ワインや果実を運んだりしておりますから意外と力はあるのですよ」
リシュアの表情を読んで司祭はちょっと誇らしげに微笑む。それを聞いて、ここはその言葉を信用して手伝ってもらうことにした。リシュアは脚立に上がって司祭に声を掛けた。
「すみません、それをこちらに頂けますか」
司祭はドアを両手で抱えてリシュアに向かって歩き出した。しかし不運にもその足はうっかりとローブの裾を踏みつけてしまっていた。
「あっ」
とと、とよろめいて、司祭はドアごと前方に倒れこむ。そのままドアは木枠に激しくぶつかり小窓のガラスが衝撃で砕けた。
「司祭様!」
リシュアが脚立から飛び降り駆けつけた時には、司祭は反動で跳ね返って倒れかかってきたドアと石の床に挟まれていた。ドアの下から柔らかな栗色の髪が床に広がっている。リシュアは青ざめて、祈るような気持ちでドアを持ち上げた。
鮮血。
リシュアの目に飛び込んできたのは、大きなガラスの破片が腕に深々と突き刺さった司祭の姿と、その純白のローブを染める真っ赤な血の染みだった。
「!」
リシュアは息を飲んだ。ドアを投げ捨て、司祭の肩に力を込めて止血を始める。そのまま下手に抜いては激しく出血する恐れもあるのだ。手当てを施していると司祭がうめき声を上げて目を開けた。幸い頭は打っていないようだ。
「動かないで。今手当てします」
その瞬間、司祭の顔がみるみる強張り血の気が引いていった。自らの怪我をその目で確認すると体を硬くして素早くリシュアの手を振りほどき、起き上がってあとじさった。左手で怪我をした右手を押さえてはいるが、腕にはまだガラスが刺さったままで、右手の指先からはぽたぽたと赤い血のしずくが床に向かって零れ落ちている。
「……司祭様?」
驚いたのはリシュアだ。何がそんなに気に障ったのか理解できない。混乱した頭で考えることはまず司祭の怪我をなんとかすることだ。
「大丈夫。大丈夫です。さあ、こちらへ……」
身を屈めてそっと手を差し出すものの、司祭の様子に変化はない。
「……すみません、失礼します」
乾いた声で搾り出すようにそう言うと、司祭はそのままの姿でキッチンから駆け出していった。訳が分からずにリシュアは呆然と立ち尽くし、追うべきかと考えたものの司祭の表情を思い出してすぐにそれも諦めた。散乱したガラス片と痛々しい血の跡を見つめてリシュアは一人落ち込んだ。打ち解けたと思っていたが、まだあんな表情をされてしまうのか。なかなか埋められない距離をただ歯がゆく思ってひとり唇をかんだ。
買い物に出た二人が戻るまでにはキッチンはすっかり綺麗に片付けられ、事故の痕跡は全く無くなっていた。唯一ガラスだけが元に戻らなかったが、倉庫にあった古いガラスを使ってそれも修理した。しかし事故のことは二人にも話すべきだろう。大きな買い物袋を提げたイアラと箱を抱えたロタがこちらへ近づいてくるのを落ち着かない気持ちでリシュアは待った。
その時向こうから司祭が姿を現した。先ほどの白いローブから水色のものに着替え、しっかりした足取りでリシュアと二人の間に入るように近づいてくる。
「おかえりなさい。お疲れ様でした」
司祭は柔らかく微笑む。いつも通りの姿だ。ゆったりとしたローブの上から傷の様子は伺えない。だが顔色が良いことにリシュアは少し安心していた。とりあえず司祭が無事ならそれで良かった。楽しく談笑しながら去っていく3人をリシュアはそのまま見送った。
そのまま警備員室に戻ったが、やはり心配は消えない。自分で手当てをしたのかもしれないが、ガラスで負った傷は厄介だ。破片などがまだ中に残っているかもしれない。リシュアは落ち着かなくそわそわと体を動かした。
「どうしたんですか? トイレなら空いてますよ」
不思議そうに声を掛けるムファの頭を軽く小突いて、リシュアは警備室の医療棚を開けると医療道具や薬品をいくつか選んで小箱に詰め始めた。
「誰か怪我でもしたんですか?」
それには答えず部屋を出た。残されたムファは怪訝そうに少し顔をしかめたが、すぐにまた目の前のスポーツ雑誌に目を落とした。
「司祭様、いらっしゃいますか」
部屋の前でしばらくうろうろした後、意を決して部屋の前で声をかける。以前使っていた内線電話はもう今は使われておらず、その先の廊下までは自由に行き来することが出来るようになっていた。
「司祭様?」
2度声を掛けて待ったがやはり返事は無い。いないのか、顔を出す気が無いのか。諦めて戻りかけた時だ。
「……はい」
小さく、戸惑うような声がした。急に後悔の念が押し寄せる。自分は今ひどく余計なことをしているのではないか。しかしもう遅い。一度深く息を吸ってからドアに向かって声を掛けた。
「あの……余計なことかとは思ったのですが、傷の具合が心配になりまして」
「それなら心配はいりません。もう大丈夫です」
即座に返事があった。その真意を測りかね、迷った末に更に問うた。
「かかりつけの先生などはいないのですか? いつもは往診なのでしょう?」
またしばらく沈黙がある。
「私は体だけは丈夫ですから。病気は滅多にいたしません」
扉越しの問答は続く。リシュアは痺れを切らしてきた。
「良かったら私に手当てさせて頂けませんか? 戦地である程度のことは学びましたから看護師程度の治療ならできます。ガラスの破片が残っているかもしれません。お願いですからここを開けてください」
懇願する声が静かな廊下に響き渡る。そしてそれもその後に続く沈黙に押しつぶされた。
「司祭様!」
呼びかけると、ようやく返事が返ってきた。
「分かりました。では、お入りください」
そしてゆっくりとためらうようにドアが開かれ、思いつめたような表情の司祭が姿を現した。

 

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