風が吹く前に 第2部 (19)                       目次

深夜の劇場の裏口はひっそりと静まり返っている。黒いワンピース姿のルミナが大きな鞄を肩に掛け、リシュアに付き添われて出てきた。今日はリシュアも不自然さがないように、黒い胸の開いたシャツに白のパンツという少し遊び人風の服装をしている。顔つきや髪型のせいか、こういう格好をするとなまじ「本物」に見えてしまうから困る、とリシュアはガラスに映った自分の姿を見て苦笑した。ルミナは細い煙草に火をつけて、湿った夜気に向けてすう、と白い煙を一筋吐いた。
「いる?」
淡いピンクの口紅が付いた煙草をリシュアに差し出す。
「有難う。だが禁煙したんだ」
両手をポケットに入れたままリシュアは人懐こく微笑んだ。
「はーん、想い人とやらが煙草嫌いなんだろ」
煙草を咥えたままでルミナはにやりと笑う。
「……そんなところだ」
リシュアは肩を竦めて歩き出した。通り雨があったらしく、古い石畳は黒く濡れて夜の灯りを赤く青く映している。
「なあ、魔術ってのはやっぱり仕掛けがあるのかい? 俺にも覚えられるものかな」
並んで歩きながら何気なくそんな話を始めた。ルミナは小さく低くくすくすと笑った。
「当たり前さ。大抵皆そう聞いてくるんだ。今度から背中に返事を貼っておこうかね。……そうだ。何なら今度簡単なのを教えてやるよ、色男さん」
リシュアは目を細めて笑った。明るく飾らないルミナとの会話は仕事を忘れる楽しさがあった。それにしても彼女のような人間が本当にイリーシャなどという怪しい集団に関わっているのだろうか。そう思いながら口を開きかけた時だった。
「うわ……! あああああああああ!」
男の、異様な叫び声が夜の住宅街に響いた。リシュアは一瞬迷ったあと、ルミナの手を引いて声のした方へと急いで向かった。
 古く、仄暗い歩道に座り込んでいる人影が見える。
「どうした?!」
 その声に、はっとしたように男はリシュアの方を振り返った。薄明るい街灯に浮かび上がるその顔は恐怖に引きつっていた。
 「う、ああ……」
 男は声を詰まらせながら、地面に座り込んだまま前方を指差した。更に暗いその先には何か人のようなものが横たわっている。リシュアは銃を取り出し周囲を目で確認した後、その物体にゆっくりと近づいた。
 「……ちっ。こっちだったか」
 その物体は、人だった。いや、かつて人だった骸だ。一目でそれと分かったのは、その皮膚が土色に干からびていたからだった。
 「何か見なかったか?」
 リシュアは腰を抜かして顔を引きつらせている男に声をかける。男はリシュアを見上げて口をぱくぱくさせながら斜め前方を指差した。その先には細い路地。
 「犯人を見たんだな?!」
 「わ、分からない……。ただ、この人が倒れた後に誰かがあっちへ……」
 迷っている暇はなかった。リシュアはルミナの元に戻るとその手を引いて男に預けた。
 「この人を頼む。この先に交番があるからこのことを知らせてくれ」
 それだけ言うと、男が指差した細い路地に向かって駆け出した。
暗い路地にリシュアの足音だけが響く。少しうねりながらも分かれ道のない1本道だ。しばらくその道を辿ると、小さな広場に出た。広場の向こうには少し開けた街並みがある。
「見失ったか」
ここから街に入り込まれればもう後を追うことは不可能だ。諦めて戻ろうとしたとき、リシュアは雨に光る芝生の上に僅かに残る新しい足跡を見つけた。雨で地面が柔らかくなっていたおかげだろう。幸運に感謝しながらズボンのポケットから小さなペンライトを取り出し、左側の林のほうへと続く足跡を追った。
月(リュレイ)のほとんど無い夜の林の中は暗い。しかし足跡には雨水が溜まっており、僅かな光でも追うことが出来た。歩幅は狭い。足跡の持ち主が走っている様子は無い。まだ間に合うかもしれないとリシュアは足を速めた。
林は意外と深く奥まで続いていた。道という道もなく、ただ足跡だけを追った。下草も消え、土の上に小さな足跡が点々と迷いなく真っ直ぐに残っている。やがてリシュアはあることに気づいた。
「ここは……」
リシュアはこの場所を知っている。そして雨上がりの湿気の中に残る香りにも覚えがあった。いつしかリシュアの足は止まっていた。
 ぱた。ぱた。
 少しずつ、その音は勢いを増していった。また通り雨がやってきたようだ。次第に雨は強くなり地面を叩き始める。このまましばらくすれば足跡は消え去るだろう。全て雨が流すだろう。リシュアは銃を仕舞うと雨に濡れたまま踵を返して、交番に預けたルミナ達の元に足を向けた。
オクトに連絡を取り、ルミナを交番に預けたままリシュアは寺院に戻った。彼の顔は暗い。警備室には寄らずにまっすぐキッチンへ向かい、地下室に潜った。
「なんてこった……」
リシュアは愕然としてその床を見た。真新しい、泥の足跡。例の秘密の扉は半開きのままだ。
あの足跡を追って見たのはこの通路の出口のあの林だった。足跡はあの秘密の出入り口に続いていたのだ。そしてそこにほんのりと漂う残り香は、司祭のものと同じ甘い香の香りだ。
リシュアはそれでも認めたくはなかった。あの司祭にあのような所業ができるとは到底思えない。あの場に居合わせたのが司祭だったとしても、犯人であるということにはならないのだ。あのピクニック以来、司祭はこっそりと寺院から抜け出ることに楽しみを見出していたのかもしれない。しかしただそれだけだ。不幸にして今日はあの現場に遭遇してしまったのだろう。そしてこのことがきっかけで司祭が寺院から抜け出たことが明るみに出て、問題にされることは、少しでも司祭に嫌疑がかかることはどうあっても避けたかった。リシュアはこの痕跡を封じるかのように硬く扉に鍵をかけた。
 
 
 「こちらがやられるとはな」
 腕組みをしたオクトが眉間を指で押さえながら吐き出すように呟いた。
 「こいつは誰なんだ?」
 中央警察機構旧市街支部、その地下にある死体安置所に二人は再び居た。リシュアは昨日被害にあったミイラ化した遺体を見つめた。髪が金髪になった以外はまるで同じような土色の人型の固まりであり、前回の被害者トーラス=ヘインとまるで見分けがつかない。
 「イリーシャには関わりがなかったが、念のために別のチームが警護していた男だ。……バーテンをしてるんだが、裏で盗品売買なんかに関わっていたらしい。ちょくちょく我々を撒いては「仕事」に行っていたようだが。……馬鹿なやつだ」
 苦々しいオクトの口ぶりから悔しさを感じ取って、リシュアは友を労わるような視線を投げかけた。今朝からニュースでも警察の失態を叩くような報道が各局で流れていた。責任者であるオクトは相当応えているだろう。
 「それで、なにか手がかりになるようなものは無かったのか?」
 オクトの質問にリシュアはどきりとする。平静を装いゆっくりと頷いて見せた。
 「ああ、残念ながら俺が行ったときは逃げた後だった。後を追ったが……広場から街中に出たようだ」
 リシュアは友に心の中で謝罪しながらそう答えた。全ては司祭を護るため。犯人の手がかりならこれから一緒に探せば良い。
 「そうか。じゃあ犯人は旧市街の人間という線がやはり濃厚だな。まずはまた聞き込みから始めるか」
 「ああ、手伝うよ」
 嘘を償うような気持ちでそう伝えた。
 
 
 寺院に戻ると、リシュアは買ってきた煉瓦を地下の秘密の通路に運び込んだ。自分で壊した壁があったあの場所に再び煉瓦を積んではセメントで固めていく。赤い煉瓦を1つ1つ積みながら、あのピクニックの時の司祭の笑顔を思い出す。太陽の下で、それは明るく輝いていた。無邪気な笑い声。また連れて行きたいと思っていたが、今はまだそれさえも許されないようだ。
 煉瓦を積む手が止まった。リシュアの心は沈んでいた。小さな煉瓦がやけに重く感じられる。しばらく暗い表情で半分ほど積みあがった壁を見つめていたリシュアだが、ふと吹っ切れたように再び煉瓦を積み始めた。これが司祭を疑惑から護るためならば、もう迷うことはなかった。煉瓦を天井まで積み上げ通路を完全に封じ、その通路へ続く扉にも漆喰を塗り固めると、寺院は再び司祭を閉じ込める丘の上の牢獄となった。
夜を待ってリシュアは昨日のことを思い切って司祭にたずねてみようという気になった。事実関係が分かれば疑いを向けられた時に力になれる事も多いだろう。いつも司祭の秘密主義に付き合ってきたが、事件となると黙ってもいられない。これは司祭を護るためだ。リシュアは何度も心で繰り返し、挫けそうになる気持ちを追い払った。
しかし、その日に限ってイアラが司祭の部屋を訪ねて遅くまで談笑していた。更けていく夜にじりじりと時計とにらみ合いが続いた。深夜になってようやくイアラは暇乞いをして部屋に戻っていった。さすがにこれから部屋を訪れるのは非常識だろうか。迷った末にやはり明日まで待つことにした。
「もうすぐですね、司祭様のところのお祭り」
冷えたソーダを片手に車の雑誌のページを繰っていたムファがふと顔を上げた。
「ああ、そういえばもう明後日か」
ぼんやりとリシュアは答える。
「何着ていけばいいんですかねえ。何か持っていった方がいいんでしょうか?」
そういえば何も聞いていなかった。しかし今はそんな気分ではない。祭りと聞いてリシュアは更に憂鬱な気分になった。
「明日にでも聞いておく」
リシュアは不機嫌そうに答えて部屋を出た。夜の空気が吸いたかった。小高い丘の上にあるこの寺院は朝晩なら真夏でも涼しい。剃刀のように細い月(リュレイ)が僅かな光を庭園に落とす。妙な感覚にふと見上げると、いつぞやの夜のように塔が呼吸をしているかのような生暖かい気配を発していた。あの時はロマンチックだ、などと呑気なことを言ったものだが、今こうして見上げるとやけに不気味に感じられる。リシュアは息をつめた。
―――歌が聞こえてきた。
あの夜と同じだった。塔の方から歌声がする。リシュアはそっと声のする方へと近づいていった。
塔の足元の庭に司祭が佇んでいた。庭にひとり立ったまま、静かに歌を口ずさんでいる。その周りを取り巻くように霧が広がり、生き物のように広がっていた。霧はだんだんと辺りを包み込み、見る間に視界を奪っていく。リシュアは司祭を見失わないようにそっと近づいた。低く不思議な歌声が、甘い香の香りが、霧とともにリシュアの元に届く。幻想的な美しい眺めだ。リシュアは心奪われたように言葉もなくじっと見つめ続けた。
霧の中で、司祭の手がすう、と上がった。庭の向こうの藪の中でがさりと音がして、何かが動く。見ると小さな狐がゆっくりと姿を現した。愛らしい黒い瞳で真っ直ぐに司祭を見つめ、足音を忍ばせて近づいていく。司祭の横顔が、ふっ、と夢見るように微笑んだ。いつもの慈愛に満ちたそれとは違う、どこか妖艶な微笑み。リシュアはどきりとしてその横顔を見つめた。
狐はそろりと司祭の足元にまで顔を寄せた。司祭はゆっくりと跪き、その細長く愛らしい顔に自分の顔を寄せた。そうしてそっと背を撫でながらその獣の上に屈みこんだ。
その一瞬後、狐が小さく短い鳴き声を上げた。狐の体が、足が、小刻みに震える。暫くそうしたあと、小さく細長い体は崩れるように力尽きて横たわった。
まさか、とリシュアは心の中で呟いた。そうして震える足でゆっくりと司祭に近づいていく。すぐ目の前まで近づいたとき、霧の中で狐の姿が鮮明に見えてきた。
その姿は、干からびたミイラのようだった。
「あ……」
リシュアは思わず声を漏らした。
その声に、ゆっくりと司祭はリシュアの方へ顔を向けた。美しい妖艶な笑み。そしてその瞳は霧の中で金色に光っている。動こうと思ったが、その目に魅入られたのか、体が動かない。司祭はゆっくりとリシュアに向かって歩き始め、目の前で歩みを止めた。白い霧に包まれて、まるで夢の中にいるかのようだった。司祭は再びリシュアへ歩み寄る。端正な顔が少しずつ近づいてきた。
息がかかりそうなほどに司祭の顔が目の前にある。ぞっとするほどにそれは美しかった。司祭の白い指がリシュアの腕を掴む。彼は術にかかったかのように体の自由を奪われていた。司祭は再び笑みを漏らした。少し伸び上がって顔を近づける仕草はキスをしようとしているように見える。そしてそれに従うようにリシュアは無意識に背を屈めていた。鼻が触れるほどに顔が近い。
薄紅色の唇がリシュアのそれと触れようとした瞬間。リシュアの脳裏に罪悪感と使命感のようなものが湧き上がった。こんなことで良い訳が無い。この優しく美しい人に罪を犯させて良いはずが無い。
「司祭様!」
突き飛ばすように体を離して、リシュアは短く叫んだ。その声と衝撃に、司祭の金の瞳が揺らめきながら大きく見開かれた。そうしてゆらりゆらりとその体を揺らした後、司祭は目を閉じてゆっくりと崩れ落ちた。地面に頭を打ち付ける直前にリシュアの手がその体を支える。
「……司祭様?」
そっと抱きしめた後、司祭の顔を覗き込む。再び開かれたその瞳はいつもの淡い菫色に戻っていた。
 

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