風が吹く前に 第2部 (20)                       目次

 
虚ろな目がしばらく空(くう)を見つめる。そしてゆっくりと焦点を合わせたあと、不思議そうにリシュアを見上げた。
「……中尉?」
今目覚めたとでも言うようなぼんやりとした表情だ。支えていた体を起こしてやると、軽く頭を振って目頭を押さえた。
「大丈夫ですか?」
労わるように優しく声をかける。司祭は夢見るような表情でリシュアの顔を見つめていたが、ある瞬間その目に光が戻った。そしてはっとしたように周りを見回す。辺りはまだ霧が立ち込め、木々の葉や芝生に夜露が降りていた。そして少し離れた地面の上に転がる獣の骸。
「あ……」
司祭の体は足の力が抜けたようによろめき、それを支えていたリシュアの手に重みがかかる。それをしっかりと抱きとめてなだめるように囁いた。
「大丈夫。大丈夫です」
しかし司祭は体を硬くしてすぐに身を離した。そしてゆっくりと骸に近づくと、傍らに座り込んでそっと撫でた。
「……また……私は……」
それだけ言って頭を垂れる。リシュアは静かにその後ろに近づいてそっと肩に手を置いた。二人は暫くそうしていたが、司祭はふいに立ち上がり、逃げるように駆け出した。
「……待って!」
無意識に、リシュアはその後を追い司祭の手を掴んでいた。
「お放しください」
懇願するように言って司祭は顔を背けたまま腕を引いた。だが、リシュアは握る手に力を込めた。今この手を放してはいけない。それだけははっきりと分かっていた。いつもは司祭の気持ちを優先して深追いをせずにいたが、今はその時ではない。
「もう黙って見ているわけには行きません。お願いです。私にだけは全て打ち明けてください」
 司祭の動きが止まった。リシュアから身を離そうとする力がゆっくりと抜け静かに項垂れた。その背に手を添えると、霧に濡れたローブが風で冷やされてひんやりとしていた。
 「ここは風に当たりますから、部屋にお送りしますよ」
 なだめるように声をかけ、リシュアは司祭を連れ立って建物の中に入っていった。
部屋まで連れ添って行くと、ようやく司祭の顔色に血の気が戻ってきた。自分の部屋に戻って少し気持ちが落ち着いたようだ。更に落ち着かせるために、リシュアは棚からブランデーを取り出してグラスに注ぎ司祭に手渡した。
 「……有難うございます」
司祭は俯いたままグラスを手に取り、静かに口に運ぶ。リシュアは敢えて何も聞かずに隣に座ったまま黙って司祭を見つめていた。それからどれだけの時間が経っただろう。司祭は静かに口を開いた。
「全てご覧になったのですね」
リシュアは黙って頷いた。司祭は俯いたままだったがその動きは感じ取ったらしい。ゆっくりとため息をつくような深呼吸をした。
「いつからなのか自分でも分からないのですが、気が付いたときはこの力に目覚めていました。新月が近づくと何故かこのような行動に出てしまうのです。そしてその間の記憶も朧気で……」
司祭は唇を噛んだ。涙を堪えているのだろう。手と肩が小さく震えていた。
「私は、自分が何者なのか分からないのです。何故私だけが人と違うのか。両親も何も教えてはくれませんでした。私にできることは新月の頃には子供たちに夜出歩かないよう言い聞かせることだけです」
リシュアはグラスを持ったまま小刻みに震える手を自分の両手でそっと包み込んだ。
「大丈夫。もう心配はいりませんよ。私も力になりますから。どうか一人で悩まないで下さい」
その言葉に司祭は驚いたように顔を上げた。
「……あなたは私が恐ろしくはないのですか? あなたを襲うかもしれないというのに……」
司祭には先ほどの記憶がない。人を襲おうとしたと聞けば司祭がどれだけ傷つくことか。リシュアは自分が体験しかけたことは話さずにおこうと心に決めた。
「恐ろしい? 私は司祭様のお優しい心を良く知っています。何故恐れることがありましょうか」
リシュアは優しく微笑みかけた。そうして司祭の手からグラスを受け取りテーブルに置くと、その目を見つめながら両肩に手を置き語りかけた。
「大丈夫。先ほども司祭様は私が声をかけたら正気に戻られました。誰かが傍についていれば防ぐことができるはずです。……もしも司祭様がお嫌でなければ、その役目を私に命じてはくれませんか。必ず秘密は守りますから」
司祭は不思議そうに眉をひそめて小首を傾げた。
「……中尉。何故あなたはそこまでしてくださるのですか? これはもう中尉のお仕事の範疇を超えております。思えば私はあなたにひどい言葉をかけたことも少なくありません。それなのに何故見限ることなく、こんなに親切にしてくださるのですか?」
ずっと気になっていたことだった。そして今こうして口に出してみると尚更不思議でならなかった。今まで寺院に赴いた軍人たちは悪い者ばかりではなかったがどこか余所余所しく、仕事と割り切っていた。そしてそれは司祭も同じことだった。しかしこの目の前の人物は、どんなに突き放してもそれを受け止めて、いつも笑顔で傍にいてくれる。まるで家族のように今もこうして自分を護ろうとしてくれている。何が彼をそうさせているのか、司祭にはまるで見当がつかなかった。
たずねられて、リシュアは返答に詰まった。彼にしてみれば自然なこと、当たり前のことなのだ。だが今こうして改めて何故と聞かれてしまうと、言葉にして答えることは難い。リシュアは顔が僅かに上気するのを気取られないよう少し俯いた。
「根がおせっかいなんですよ。気にしないで下さい」
そうして照れ隠しににんまりと笑いかけ、司祭の手を取って立ち上がった。
「今日はこのままお休みください。私は部屋の前で朝まで番を致します」
司祭は何か言おうとしたが、リシュアが笑顔で首を振ると諦めたように口をつぐんだ。
 そうして司祭の寝室の前で朝を迎え、頃合いを見てリシュアは布袋を手に庭へ戻った。先刻司祭と遭遇した塔の前にはまだ狐の骸が横たわっていた。庭はきらきらと露が朝日に輝いている。そういえば前にもこの風景を見たことがある。霧の露に濡れて輝く朝の庭園。こんなにも美しいのに、それは深い闇のような秘密を内包しているのだ。まるで司祭そのものだ、とリシュアはじっと庭を見つめた。
手にした布袋に狐を仕舞いこんだ時、リシュアは人の気配を感じて後ろを振り返った。後方にイアラが古布を抱えて佇んでいる。布袋を持ったリシュアをじっと見つめて立っていたが、再び彼の方へ歩みを進め立ち止まって間近から見上げた。
「それ……」
イアラの視線はリシュアが手にした布袋に注がれている。
「狐さ。塔にぶつかったらしい」
リシュアは袋の上からぽんぽんと軽く叩いて見せた。
「ふうん。狐もそんなヘマをするのね」
イアラはじっとリシュアの灰色の瞳を覗き込んでいる。その目を見返して、リシュアはにっこりと微笑んだ。
「埋めてやりたいんだが、手伝ってくれるか?」
イアラは黙って頷いた。
二人は連れ立って塔の奥にある林の中に入っていった。杉の木の根元にスコップが立て掛けてある。その周りにはいくつもの土の山。リシュアはそれを避けるようにして穴を掘り始めた。深く深くぽっかりと開けた穴に袋ごと狐を横たえるとそれを封じ込めるように土をかけていく。そうして土の山がひとつ増え、秘密の林は再び沈黙した。
 
 
早朝の中央警察機構旧市街支部にまだ人の姿は少ない。髪をきつく結び度のない眼鏡をかけ地味なスーツに身を包んだリシュアは、広い玄関を抜けてまっすぐ資料保管室に向かった。すれ違う人たちの中にも彼に目を留めるものは誰もいない。
保管室の鍵はかかっていなかった。壁のスイッチを入れて灯りを点け、目指すロッカーに手をかける。ロッカーには鍵がかけられていたが、ピンで簡単に開けることができた。ずらりと並ぶファイルの中からリシュアは手早く目的の資料を探り出す。先日リシュアが遭遇した旧市街での第2の事件ファイルだ。オクトとは別に旧市街支部の担当者が作成した調書や証拠、資料などが綴じてあった。手帳を取り出し、目撃者の男の住所を書き写して事件の資料に目を通す。やはりあの後の雨のせいでこれといった証拠や痕跡は残されていなかったようだ。リシュアは安堵の息を漏らした。そしてロッカーに元通り鍵をかけ、リシュアは建物を後にした。
 
 
「あれ、またですか」
リシュアが身分証を見せながら中央警察を名乗ると、例の目撃者の男は怪訝な顔をした。リシュアは敢えて不機嫌そうな態度をする。
「事件が解決するまでは協力するのが市民の義務だ」
男は渋々ながら細く開けた玄関のドアを一度閉め、チェーンを外してリシュアを迎え入れた。
「何か思い出したことはないかと思ってな。なにせ目撃者が少なくて情報が足りない。なんでもいいから話してほしい」
男は腕組みをしたままあれこれと記憶を巡らしているようだが、その顔は渋い。
「うーん、なにせ暗かったし。一瞬だからねえ」
「年齢も性別も不明、か。性別くらいは分かりそうじゃないか」
男は恨めしそうにリシュアを見返す。
「本当に暗かったんですよ。それに動転していましたし。まあ、髪は長かった気がするんですが、女性にしちゃあ結構身長があったような気がしますねえ」
「成程な。だが女性はヒールの高い靴を履くからな。だとしたらどうだ?」
男は顎に手を当ててじっと考えた後、うんうんと頷いた。
「ああ、そうですね。言われれば確かに女性のように見えました。……なんだか、マントのようなものを着ていたように見えましたね」
「マント? 仮装じゃあるまいし。例えばレインコートのような何かを見間違えたんじゃないのか?」
その言葉を聞いて、男の顔が明るくなった。
「うーん。そうかもしれない。あの日は雨だったし。ああ、そうだ。きっとそうですよ」
「そうか。……ほらな、良く考えれば思い出せるだろう」
今までの経験から、自信のない記憶は後から容易く書き換えられていく。もうこの男があの夜に見た人物の本当の姿を思い出すことはないだろう。リシュアは手帳を閉じた。
「助かったよ。また仲間が来るかもしれんが協力を頼む」
「……なるべくこれっきりにしてほしいですね」
恨めしそうな男の声を背中に聞いてリシュアは証人の家を後にした。
駐車場に停めておいた車に乗り込み、エンジンをかけた。耳に馴染んだ音楽が流れてきて一気に緊張がほぐれる。リシュアは眼鏡を外し運転席にどさりと体を預けると大きな息をひとつ吐き出した。自分が今していることは少なくとも正義ではない。しかしそんなことはどうでもよかった。大事なのは司祭を護ることだ。たとえそれが法に背くことであるとしてもこの行動に悔いも迷いもなかった。
「さて、帰るか」
体を起こしギアを入れると、リシュアは寺院に向かって車を走らせた。

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