風が吹く前に 第2部 (22)                       目次

夜になり、月が細く爪痕のように空で青白く光っている。リシュアは司祭の見張りをするために再び部屋を訪れた。
「司祭様?」
廊下から声をかけると、寝室の扉が静かに開いた。寝間着姿にガウンを羽織った司祭が姿を現した。リシュアを見上げて微笑んだ後、丁寧にお辞儀をする。
「今日もお世話になります」
その動きに合わせるように、司祭から、ふと良い香りが漂ってきた。いつものお香とは違う仄かな石鹸の香り。見ると司祭の頬は微かに紅潮しており、髪もしっとりと湿っている。恐らくは入浴直後だったのだろう。その表情や服装も含めて余りに無防備な姿だ。リシュアは目のやり場に困って視線を泳がせた後、自分の靴を見つめ頭を掻いた。
「いいえ。夜起きているのは慣れています。少しでもお役に立てるなら光栄ですよ」
顔を上げると、司祭は嬉しそうに微笑んでいた。つられてリシュアも笑顔になる。
「お入りになりますか?」
意外な言葉が司祭の口から出て、リシュアはどきりとして目を見張った。寝室の中まで招かれるとは全く想定していなかった。
「あ、いえ。ここでも番はできますから。椅子だけお借りできますでしょうか?」
司祭は司祭で断られるとは思わなかったようで、少し困ったようにリシュアの顔を見つめた。リシュアは自分の意思を表す返事の代わりに、笑顔で司祭の肩に手を置き寝室を指差した。司祭は諦めたようにこくりと頷くと、部屋の中から椅子と毛布を運んできた。
「お借り致します。では、ここは私が見ておりますから安心してお休み下さい」
そう言われても、司祭はリシュアを廊下に出したまま一晩過ごさせることに抵抗を感じているらしい。少し小首を傾げたままじっとリシュアを見つめ、扉を開けたまま落ち着かない様子だ。その様子が余りに可愛らしくて吹き出しかけ、すんでのところでなんとか堪えた。
「大丈夫。そんなに心配されると私もやり難いではないですか」
苦笑して、おどけたように軽く手を振って見せた。すると司祭はようやくほっとしたような顔になり、小さく頷いた後「おやすみなさい」と呟いてそっと扉を閉めた。
 
椅子に座って本を読みながらリシュアは夜を明かした。幸い今夜は起きだすこともなく司祭は静かに休んでいるようだ。そうして気がつけば廊下の天窓から朝日が薄く射し込んでいる。椅子から立ち上がって大きく伸びをし、寝室の扉の横の灯りを消した。腕時計を見ると、まだ4時を回ったばかりだった。しかし司祭が歩くのは夜の間だけ。朝日さえ昇ればもう大丈夫だ。リシュアは毛布を畳んで椅子の上に置き、扉に向かって軽く礼をしてその場を去った。
 
そのまま警備室に戻ると、夜勤のユニーとビュッカが見回りを終えてお茶を飲み始めたところだった。ユニーは驚いたように目を丸くしてリシュアを見上げた。
「随分と早いですね。お祭りは夜ですよ」
ビュッカはうっすらと伸びたリシュアの髭と充血した目を見咎めて不思議そうにたずねた。
「徹夜でもなさったんですか?」
不思議そうな二人を尻目に、出来上がったばかりの紅茶をカップに注いでにやりと笑う。
「お祭りの前ってのは、誰でも眠れなくなるもんさ」
 
 
 一度自宅に戻り、睡眠をとってから私服に着替えて寺院に戻る。祭りには少し早いが、子供たちは既に準備に追われていた。
「手伝おうか?」
ひょっこりとキッチンに顔を出すと、イアラが嬉しそうに振り向いた。
「ああ、よかった。のっぽさん」
イアラは椅子に上がり、ロタは梯子に登っている。二人の手には色とりどりのモール。どうやらダイニングの飾りつけをしていたようだ。梯子がひとつしかないためにかなり手こずっているらしい。
「いつも邪魔にされてるこの身長が役に立つようだな」
リシュアは苦笑してイアラの手からモールを受け取った。見ればモールは紙で手作りしてある。随分前からこつこつと準備をしていたようだ。子供たちにとってこういう祭りはワクワクする大事なイベントに違いない。リシュアはロタが憎まれ口を言うのも忘れて真剣に作業しているのを微笑ましく見つめた。
 
飾りつけが大体形になった頃、司祭が両手にワインを下げてキッチンに入ってきた。カラフルに飾られた白い漆喰の壁を見回して目を丸くした後、にこにこと微笑んだ。
「ああ、今年は随分と賑やかですね」
リシュアは梯子に登ってロタから手渡される星の飾りを天井から吊るしていた。しかし急いで下に降りると、司祭の手からワインを受け取り、机に置いた。
「司祭様、こういう力仕事は私に言ってください」
司祭はその言葉に胸を張って答える。
「このくらい、私一人で十分です。前にも申し上げましたでしょう? こう見えて力はあるのですよ」
でもあの時は転んで怪我をしたではないか、とリシュアは思ったが口には出さずに静かに頷いた。
「それにしても収穫ではなく、この時期にお祭りなんですね。何故星を飾るんですか?」
先ほど自分が飾り付けた木製の銀の星飾りを見上げてリシュアは司祭に尋ねた。司祭はふっと微笑むとリシュアの手を引いて外へ出た。ふいに手を掴まれてリシュアはどぎまぎしながらも後を追う。
 
司祭は何も言わずにリシュアを葡萄畑へと連れてきた。葡萄は青々と葉が繁り、その下には小さな房が見え隠れしている。司祭はその緑色の小さな房を手に乗せた。
「これが葡萄の花です」
花というにはあまりに地味で、未熟な実のように見えた。司祭は手の上の花をそっと撫でるような仕草をした後、再びリシュアの手を掴んでそっと持ち上げる。そうして、もう一方の手に握っていたものをその手の平に落とした。それは緑色の小さな星だった。
 「……へえ?」
 リシュアはまじまじと手の上の緑色の粒を眺めた。それはとても小さいが、はっきりと星の形をしていた。
 「葡萄の花が開くとき、そのような星形の花弁が散るのです。……ほら」
 司祭が指差した地面の上には同じような緑の星がたくさん落ちている。
 「まるで地面に星が降るようなので、降星祭と言うのです。開花をお祝いし、秋の実りを祈って開かれるお祭りなのですよ」
 本当に、星が地面に降ってきたようだった。リシュアは暫くしげしげと地面を眺めてから大きく息を吐いた。
 「なるほど。こりゃあ愛らしい。なかなかロマンティックなお祭りですね」
 にっこりと微笑むリシュアに司祭も嬉しそうだ。
 「さあ、戻りましょう。子供たちはお祭りを待ちかねているようです」
 
 キッチンへ戻ると、ビュッカ達が並んで入り口に立っていた。中にはやや緊張気味のミレイの顔もある。今日は皆気取らない感じの私服で集まった。それが司祭の希望だった。以前は寺院警備も私服で行われていたが、司祭の軍人嫌いが改善されてからは皆また軍服での服務に戻っていた。お互い私服姿を見るのは久々で、それが新鮮な印象と、リラックスした雰囲気を作っていた。
「司祭様、ご招待頂き有難うございます」
一同は揃って深々と頭を下げる。司祭は微笑んでお辞儀を返すと、皆に椅子を勧めた。
「さあさあ、そんなにかしこまらないで下さい。今日は皆で楽しみましょう」
ビュッカは招待のお礼にと箱に入った焼き菓子を司祭に手渡した。司祭は嬉しそうにそれを受け取り、礼を述べてからイアラに渡す。そうして皆席に着き、笑顔がテーブルを囲んだ。
「皆さんは降星祭は初めてかもしれませんね。葡萄の花が咲く頃に、感謝と実りの祈りを込めて皆で集うお祭りです。気取らずに飲んで食べて、歌って踊る、それだけです」
司祭が簡単に説明をし、子供たちが頷く。
「ではワインを摘み取ったり仕込んだりする時の歌を皆で歌いますよ。はじめに私達が歌いますから、2回目からは皆さんで」
そう言って司祭と子供たちが歌い始めた。簡単なメロディを繰り返すだけで、皆すぐに覚えることが出来た。とはいえ初めて歌う歌だ。皆歌詞も音程もまちまちで、不揃いな合唱が高らかに響いた。皆歌い終わってから一斉に吹き出した。
「こりゃあ酷い。葡萄の花が萎れなけりゃいいがな」
リシュアが言うと、司祭もくすくすと笑う。ロタはにやにやと皆を見回した。
「さあ、それでは乾杯しましょう」
司祭は短く祈りを捧げる。皆もそれに倣って頭を垂れた。そして、一斉にグラスを掲げる。
「かんぱーい!」
ロタとイアラは葡萄のジュースにほんの少しワインを混ぜたものを、他の皆は司祭が厳選したワインを喉に流した。
「ああ、これは美味しい。ここでこんなに良いワインが出来るのですか」
ビュッカが感嘆交じりに言うと、司祭は嬉しそうに微笑む。
「お口に合えば何よりです。寺院でのワイン作りはもう百年以上の歴史があるそうですよ」
 そんな司祭の様子をうっとりと眺めているのがミレイだ。リシュアがその様子に気付いたのは宴もたけなわになった頃だった。イアラが腕を振るった料理はあらかた食べ尽され、ワインも空いて、ほろ酔いの人々がダンスを始めた。誰からともなく席を立ち、歌を歌い足を鳴らす。ダンスは誰もが知っている伝統的なものばかりだ。手拍子に合わせて歌と踊りが続く。遂には司祭も席を立った。子供たちと手を繋ぎ軽くステップしながら歌っていると、ミレイが司祭に近づきおずおずと手を差し出した。司祭はその手を笑顔で握り、人の輪を作った。ひとしきり楽しそうに踊った後、席に戻る途中でミレイはリシュアの耳元に囁いた。
 「司祭さまとこんなにしてお近づきになれるなんて思いもしませんでした。有難うございますっ!」
 ミレイが頬を染めているのはワインのせいだけではないだろう。その様子にリシュアははたと我に返った。ミレイにとって司祭は異性として憧れる対象なのだ。リシュアはなんとも複雑な気分になり、苦笑で誤魔化した。
 
 
夜も更け、宴は和やかに幕を閉じた。皆で手分けして片付けも終えた。キッチンは静かになり、祭りの名残で部屋の華やかな飾りだけが残された。
「さあ、今日は司祭様が特別に部屋を用意してくださったから、各自そこで休むように。巡回は俺に任せて後はゆっくり休むんだぞ」
腰に手を当てて指示するリシュアにビュッカが頭を下げる。
「済みません。中尉にお任せするのは心苦しいのですが……」
「ははっ、気にすんな。お前らが出世してから俺の面倒見てくれればそれで帳消しさ」
おどけたように言い、部屋に行くようそれぞれに向かって手で合図をする。
「まあ、こんな平和な祭りの日に何か起こることもあるまい。俺も適当に切り上げるから心配するな」
気分良くキッチンを後にする人々にそう声をかけ、リシュアは小さく手を振った。子供たちもほんの少しだがアルコールを口にして眠くなったようだ。二人とも目をこすりながら部屋へと戻っていった。
「司祭様も今日は色々とお疲れ様でした。皆本当に喜んで……。あんなに嬉しそうな顔は初めて見ましたよ。改めて、お誘い下さって有難うございました」
心を込めて礼を述べると、司祭は静かに首を振った。
「こちらこそ、いつもお世話になっていますから。感謝の気持ちです。喜んで頂けたのでしたら私も嬉しいです」
「お疲れになったでしょう? 司祭様ももうお休みにならないと。……今日もご一緒した方がいいですか?」
キッチンの電気を消して司祭と共に廊下を歩く。
「いえ……もう月(リュレイ)も戻って参りました。もう大丈夫だと思います」
その司祭の言葉に安心したような、ちょっとがっかりしたような気持ちになる。
「そうですか。では今日は警備室で待機させて頂きます」
司祭は頷き、暇請いをして廊下の向こうに姿を消した。リシュアはふぅ、と息を吐いて見送る。
 
誰もいない警備室は静かだった。グラスに水を汲み、喉を潤す。警備をすることを考えてワインを飲みすぎないようにしたつもりではあったが、疲れも相まって頭がぼんやりしていた。眠気を抑えるためにコーヒーを煎れることにする。
出来上がるまで本を読もうと、栞を外して開いた時だった。静けさを破るように電話のベルが鳴り響いた。直感的に嫌なものを感じ、緊張した表情でリシュアは受話器を上げた。
「……はい」
電話に出るや否や、受話器の向こうで事務的な声が早口で何かを告げた。リシュアの目が見開かれ、僅かに瞳が泳いだ。
「はい。了解いたしました。直ちに指示に従います」
それだけ答えて受話器を置いたリシュアの表情は厳しく、暗かった。
 

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