風が吹く前に 第2部 (3) 目次
右手に伝わるリシュアの手のぬくもりをアンビカは懐かしく感じ取っていた。遠い少女時代、奔放に先を行くリシュアの背を気が付けばいつも追っていた。追っても追っても届かない、それなのに時折気まぐれに差し伸べられた手。アンビカにとってそれは特別なぬくもりだった。
「変わらないわね」
ふと、アンビカは呟いていた。何に対してそう言ったのか、自分でもよく分からなかった。ただ懐かしさだけではない何か焦がれるような気持ちが心の中にこみ上げていた。
リシュアは優しく微笑んで、手を握ったままアンビカの額に自分の額をこつんと当てた。子供の頃からよくしていた仕草のひとつだった。アンビカも微笑みを返し、そのままリシュアの肩に頭を乗せた。その頭をリシュアの右手が優しく撫でる。そのまま二人は自然に抱き合い、リシュアはそっとアンビカをカウチに横たえると初めは軽く、次に深く口付けた。
人が動く気配にリシュアが目を覚ますと、ベッドの隣は空になっていた。バスルームでシャワーの音がする。外はまだ薄暗く、時計を見るとまだ4時前だった。水音が止まり、少ししてタオルを巻いたアンビカが現れた。目を覚ましているリシュアに気付き、ちょっと気まずそうな顔をする。
「起こしちゃったみたいね」
「随分早起きなんだな。おはようも言わずに帰るつもりだったのか?」
リシュアが困った顔で笑う。
「マニが心配するからもう帰らないと」
泊まるつもりはなかった、と言いたいのだろう。なんとなくリシュアの顔を正視できずにアンビカは窓の外を見る。
リシュアはシーツを巻いてベッドから出ると、入れ変わりにバスルームへ向かう。
「送るよ。そういう約束だろ」
アンビカは何か言おうとしたが、既にリシュアはバスルームに消えていた。
旧市街と新都心の行き来は制限されているが、検問は極めて緩いものだった。リシュアが軍の認識票をちらりと見せると、若い係員は二人の乗った赤い車を笑顔で送り出した。
しばらく大きな街道を走ると、周りは段々と緑に囲まれてきた。20年前の軍によるクーデターの後、新政府によって興された新都心と、かつては帝都として繁栄していた旧市街は広大な森と農地によって隔てられている。畑や牧草地が広がる先には薄明るくなりはじめた空の下になだらかな稜線が横たわっている。ここで育ったリシュアには昔馴染みの懐かしい風景だ。しかし最早都会の生活に慣れきった今の彼に、どうもこの景色は落ち着かない。
アンビカはじっと窓の外を見つめて黙っていたが、小さな橋の前に差し掛かると前方を指差した。
「そこの角でいいわ。誰かに見られると困るし。」
リシュアは言われるままに静かに車を停めた。小さなエンジン音も、この静かな平原ではやけに大きく響いて聞こえる。
「ここから歩くのか?昼になっちまうぞ。」
少し驚いたように辺りを見回すリシュアにアンビカはくすりと笑う。
「家からこの格好で出てきた訳じゃないわ。その先の小屋に馬と着替えを置いてあるのよ。」
ドアを閉めながらそう得意げに言った。
「なるほどね。かなり放蕩してるみたいだな」
リシュアににやりと笑われて、アンビカは頬を染めた。
「変な言い方しないでよ。たまには息抜きが必要でしょ」
そんな様子を見て愉快そうに笑ってからリシュアは少し真面目な顔になり、名刺の裏に何か書いてアンビカに手渡した。
「これ、自宅の電話番号だ。こっちに来ることがあればいつでも連絡してくれ」
アンビカは少しはにかみながらその紙片を受け取り、バッグにしまった。
「ありがと。また連絡する」
そうして軽く手を振ると、あとは振り向かずに歩き去った。少しの間それを見送った後、リシュアの車も静かにその場を後にした。
「さて」
路肩に車を停め、24時間営業のコーヒーショップで買った濃いコーヒーを飲みながら、リシュアは軽くのびをした。
「どうしたものかな」
時間はまだ5時前。薄暗い街の中に人影はまばらで、街灯の灯りもぽつぽつと残っている。暫く考えた後、再び車に乗り込み寺院に向かって走り出した。家に戻るよりも寺院の方が近く、どうせ行くのなら少し早めでも一向に構わない。予想外に早い上司の登場に驚く部下の顔を見るのもまた一興だ。慌てるムファや顔を強張らせるユニーの表情を想像して、リシュアはにやりと顔を緩ませた。
寺院へ続く橋の上から見る街並みはうっすらと朝焼けに縁取られ始めていた。門をくぐり、いつもの良く手入れされた広い庭へ出た。
庭は一面きらきらと輝いていた。朝露が生垣や芝生を濡らし、銀の水玉がまだ薄暗い朝日を反射させている。なんとなくこの幻想的な風景をもう少し眺めたくなり、リシュアは庭を散策することにした。裏庭に行けばロタや司祭を起こしてしまうかもしれない。リシュアは反対側の塔のある方へと歩き出した。
木々を見上げ、咲き始めた名も知らない青紫の小さな花に飲み込まれた水玉をつつき、気分良くのんびりと爽やかな朝の散歩を楽しむ。こんな風にゆったりと朝の時間を過ごすのは久しぶりのことだ。ゆっくりと歩いて塔を回り込むように角を曲がると、そこにはイアラの姿があった。
「あ……」
イアラは驚いて体を堅くする。
「あ、おはよう。すまない、驚かせたかな」
頭を掻いて苦笑いして見せながら、ふとリシュアはイアラの足元を見た。なにか黒いものが落ちている。イアラははっとしたようにその黒いものを持っていた布で包むと、隠すように胸に抱き寄せた。
「……鳥か?」
カラスのようだった。朝露にじっとりと濡れた黒い羽が地面に残っている。イアラは硬い表情のまま押し黙ってリシュアをじっと見つめている。少し考えたあと、ようやく口を開いた。
「……塔に……ぶつかるんです。それで、たまにこうして死んでしまうの。可哀想だから埋めてあげようと思って」
そう言って、目を伏せた。
「へえ。カラスもそんなヘマをするんだな。手伝おうか?」
リシュアはイアラの様子を怪訝に思いながらも感心して答えた。イアラは首を横に振ると、困ったように笑った。
「大丈夫。あまり騒ぎにしては司祭様が気付かれてしまうわ。優しい方だからこのことを知るとお心を痛められると思うの」
そう言って、リシュアの返事を待たずにぺこりと頭を下げて足早に立ち去っていった。リシュアは何か釈然としない気持ちのまま、地面に落ちた黒い羽をじっと見つめた。
すっかり朝日が昇った頃、リシュアは寺院の中に足を踏み入れた。ステンドグラスを通して色とりどりの光が礼拝堂に射し込んでいる。祭壇には司祭がひとり膝をついて静かに祈りを捧げていた。リシュアはその華奢な後姿を長い間じっと見つめた。彼は神を信じないが、この姿はまるで伝承の天女が舞い降りてきたかのようだと感じた。
長い祈りを終えた司祭はゆっくりと振り返り、リシュアに視線を向けた。足音で既に彼の来訪には気付いていたようだ。
「おはようございます。今日はまたお早いですね」
光を背にしたリシュアを少し眩しそうに見て、司祭は微笑んだ。
「早起きもたまにはいいものですね。庭を散策してきました。朝露が光ってとても美しかったですよ」
司祭よりももっと眩しそうな表情で目の前の麗人を見つめてリシュアが言うと、何故か司祭は僅かに表情を堅くしたように見えた。
「そう……ですか」
意外な反応にリシュアはやや戸惑って黙り込み、頭を掻いた。それを見た司祭はすぐに表情を和らげ、静かに祭壇を降り始めた。
「もし宜しければ、朝のお茶はいかがですか。もうすぐイアラが支度を始める頃です」
リシュアは司祭の少し後ろを歩きながら明るい声で答えた。
「お言葉に甘えて。では私も支度を手伝ってきましょう」
きっとあまりに朝早くに自分が姿を現したことに皆少し戸惑っているだけなのだ。リシュアはそう思って再び爽やかな朝の気分に浸っていた。
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