風が吹く前に 第2部 (5)                       目次

 それから数日後のある晴れた日の朝、リシュアは再び裏庭へ足を運んだ。丁度朝のお茶が済んで、皆が席を立とうかという時だった。突然の訪問に司祭とロタは少し驚いた顔をして、イアラは黙ってにこにこと笑顔で迎えた。
 「司祭様。今日は何かご予定がありましたか?」
 笑顔でたずねるリシュアに少し考えてから司祭は答えた。
 「……いえ、特には……」
 「では、少しお時間を頂きたいので、1時間後にキッチンへお越しください。詳しくはイアラが後でご説明します」
 司祭の答えを予想していたかのように即座に申し出ると、リシュアはうやうやしくお辞儀をする。そしてちらりとイアラを見てウインク。ロタはそんなリシュアの様子を警戒するように睨み付けている。当の司祭は不思議そうな顔をしたままリシュアとイアラの顔を見比べ頷いた後、微かに小首を傾げながら自室へと戻って行った。
 約束の時間よりも少し前にリシュアはキッチンにいた。イアラがロタに何か話している。ロタは目を丸くして何か大きな声で抗議しようとしたが、イアラに口を塞がれてそのまま黙り込み、うーむと唸って何か考え込んでいた。
 司祭がキッチンに入って来たのは丁度その時だった。いつもの司祭のローブを脱ぎ、黒のパンツに白いシャツというシンプルな姿で現れたのを見て、リシュアはひどく新鮮な印象を受けた。細く長い足はすらりと伸び、腰まである長い栗色の髪は編まれて薄い胸板の前に垂らされている。リシュアはしばらく呆けた顔でそんな司祭を見つめていたが、イアラに肘で突かれてようやく我に返った。
 「あ、ああ。ご足労頂きまして申し訳ありません。ええと……」
 ごほん、と一つ咳をして、リシュアは仕切りなおした。
 「今日はひとつ提案がありまして、そのような格好でお越し願ったのです。……と言ってもなんということはないのですが……」
 そしてリシュアは悪戯っぽく司祭の顔を覗き込むように屈んで、ぽつりと告げた。
 「ピクニックに、行きましょう」
 司祭は目を丸くした。リシュアはにっこりと微笑んだ。しばらく二人は黙ったまま目線を合わせていたが、先に沈黙を破ったのは司祭だった。
 「……あの、それはどういう……」
 おずおずとたずねる司祭に笑顔を向けながら、リシュアは嬉しそうに答えた。
 「抜け出すんですよ。ここを。見張りに見つからないようにこっそりとね。少し楽しんで、また帰ってくればバレやしません」
 そうしてイアラを手で指すと、イアラは大きなバスケットを抱え、笑顔で頷いた。準備は全て彼女が完璧にやってくれた。後は例の抜け道から司祭を連れ出すだけだ。
 「いいですよね?」
 嬉しそうに輝く司祭の顔を見れば、答えは分かりきっていた。
 「では、いざ出発!」
 子供のようにリシュアは右手を上げて先頭を歩いて皆を誘導した。蜘蛛の巣にまみれていた地下道はその後リシュアとイアラの手できれいに掃除されていた。少し暗いものの不快な移動ではないはずだ。ぎりぎりまで作戦の除け者になっていたロタは後ろの方でイアラに恨み言を言っているようだった。
 「だってあなた顔にすぐ出るんだもの。バレちゃうじゃない」
 さらりとイアラに指摘されると、一言も言い返せずにロタはそのまま黙り込んでしまった。それでもこの計画自体は嬉しいらしく、その足取りは軽かった。
 しばらくすると先方にわずかに明かりが見えた。邪魔な蔦や草は刈り取って、代わりにカモフラージュの草をつけた蓋をこしらえておいた。その隙間から漏れる明かりだ。蓋を押し開けると、一気に周りが明るくなった。
 「ああ」
 司祭はそう漏らしたまま、言葉を失っていた。緑に囲まれた暮らしをしてはいても。そこは常に石の壁の中だ。このように広い林を見るのはおそらく幼少の頃以来のことだろう。
 「ここは、序の口ですよ」
 得意げにリシュアは声をかけ、更に先へと進む。司祭は物珍しげに辺りを見回し、下草に混じって咲く野の花に触れ、空を仰ぎながらついて来る。森と反対の方向へ坂を登り、林を抜けて細い小道を行く。
 突然、視界が広がった。
 そこは一面の草原で、細い白樺がぽつりぽつりと立っていた。なだらかな斜面には牧草が生い茂り、それに混じって咲き乱れるたくさんの白い花。その先には広い畑そして大きな川、更に遠くにはまだ純白の雪を頂いた青い連峰が横たわっている。
 司祭は魂を抜かれたように呆然と立っていた。目を大きく見開き、草原を渡る優しい風に吹かれて、立ち尽くしていた。驚きの表情が徐々に喜びのそれに変わり、感激で菫色の瞳は潤んでいた。そんな様子をイアラ、ロタ、そしてリシュアは優しく微笑んでじっと見守り続けた。
 「少し歩きませんか」
 頃合を見てリシュアが司祭に声を掛ける。我に返った司祭は、はい、と頷いて足を踏み出した。イアラとロタも荷物を置いて後に続く。
 ここはリシュアの実家の領土の外れにある牧草地帯で、普段は誰も来ない秘密の場所だった。眺めが良く、四季それぞれに花が咲き、小川には魚やカニが棲む。心から寛ぐには最適の地だ。それは今も変わっていないようだった。
 始めはあまりの広さにどうしていいか分からない様子だった司祭も徐々にこの場に慣れ、少し駆けては草の上に座り、花を摘みイアラがそれを司祭の髪に挿した。小川まで来ると靴を脱いで皆で足を浸し魚を追い、カニを捕まえて手の上を歩かせてじっと見つめた。こんなに楽しそうな司祭の顔を見るのはリシュアだけでなく、イアラもロタも初めてのことだった。司祭はまるで何かの鎖から解き放たれたかのように明るい顔で太陽の下、広い楽園を存分に楽しんでいた。
 その後日が高くなった頃にイアラの用意したお昼を広げて皆で食べた。サンドイッチやフルーツなど、それほど変わり映えのしない昼食ではあったが、この眺めを楽しみながらの味は格別のものだった。
 昼食を終え、しばらく休んだ後は少し離れた森の中に行くつもりでいた。運がよければ野うさぎやウズラなどの姿を見せられるかも知れない。そう考えながら声を掛けようとした時だった。
 空がにわかに暗くなり、雲行きが怪しくなってきた。
 「あれ?」
 ロタが小さく呟いたのと同時に、ポツリ、と天から小さな水の粒が落ちてきた。
 「え?」
 リシュアも思わず驚いて空を見上げる。雨は次第にポツポツと落ちる速度を上げて、いつしか本降りになってしまった。
 「走るぞ! 林に戻ろう!」
 彼らは急いで元来た道を駆けて戻った。雨は追いかけるように強く打ちつけてくる。彼らはそのまま走り続け、林の中を通り隠し通路の出口まで辿りついた。林の中も雨をしのげるほどの木の葉はない。彼らは急いで通路に飛び込んだ。
 ようやく雨から逃れて、皆が互いを見やった。全員濡れ鼠だ。服は絞ると水が落ちるほどにずぶ濡れで、水滴が滴り落ちる髪は走ったせいで乱れて顔に貼り付いている。誰もが皆ひどい格好だ。しばらく呆然としてそんな姿を見比べた。
 「あは、あはははははは」
 それは突然司祭の口から飛び出した。他の3人は驚いて司祭に目をやった。司祭はひどく嬉しそうに体を折り曲げて、肩でまだ息を切らせたまま大きな声で笑っていた。司祭がそんな風に声をあげて笑うのを全員が初めて聞き、耳を疑った。
 「皆、ひどい格好です」
 はぁ、はぁ、と走ったせいか笑いのせいか息を切らしたまま司祭は愉快そうに吐き出した。
 「……全くだ」
 つられてリシュアも笑い出した。イアラもロタも、楽しそうにずぶ濡れのまま暗い穴の中で笑った。外はまだ雨が降り続いていた。

 
 
 そのまま通路を通って寺院に戻ると、司祭やロタ、イアラは服を着替えて何事もなかったような顔で通常の仕事に戻った。着換えのなかったリシュアだけはずぶ濡れのままタオルだけを借りて警備室へ戻った。
 「どうしたんですか、その格好」
 思わずムファが目を丸くする。ビュッカも口には出さないものの、物言いたげな目でずぶ濡れの上司を見つめている。どうやらこちら側では雨は降らなかったらしい。あの地域だけの通り雨だったのか。道理で天気予報通りにならなかったはずだ。
 「何、水道管が古くなってるって言うから交換を手伝ってたら、この有様さ」
 しれっと答えて棚から予備の着換えを取ると素早く着替えた。彼らが抜け出したことはまるで気がついてない様子だ。リシュアは司祭の楽しげな表情を思い出し、改めてこの作戦の成功を心の中で喜んだ。最後に少し予定外のことがあったが、結果的には楽しいハプニングだった。なにせあの司祭が声を上げて笑ったのだから。
 「……中尉。水道管の交換がそんなに楽しいんですか?」
 ムファが気味悪げに恐る恐る尋ねてきた。思わずにやにやと顔が緩んでいたらしい。慌てて表情を戻し部下を睨みつけると、ムファは姿勢を正して、いえ、何でもありません、と小さく敬礼した。 

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