風が吹く前に 第2部 (6) 目次
「はい。これ、例のもの」
やや人目を気にするようにして、メイアは何か重そうな紙袋をテーブル越しにリシュアに差し出した。リシュアは大事そうにそれを受け取ると、すぐにカバンの中に仕舞った。とはいえ特に怪しいものではない。メイアが勤める中央図書館所蔵の美術書だ。但し一般には貸し出しを禁止されている稀少本なのだ。場所がメイアの職場からそう遠くないカフェということもあり、なんとなくメイアは落ち着かない様子だった。
「有難う。確かにお渡ししておくよ」
リシュアはにっこりと微笑んだ。これを見た時の司祭の喜ぶ顔が目に浮かぶようだ。
「ええ、宜しくお伝えしておいて」
メイアもティーカップに口を付けながら微笑み返す。
以前リシュアが約束した通り、司祭の許可を得てメイアは特別に寺院を見て回ることができた。司祭の特別のはからいで普段は入れないような塔の中などにも立ち入りを許されたことに彼女は感激しきりだった。すっかり満足したメイアは、是非お礼に何か出来ることはないかと司祭に申し出たのだ。司祭はメイアが司書をしていることを知って、ずっと見たいと思っていた美術書の写しだけでも見れないかとたずねた。貸し出しが可能な本はイアラが代わりに図書館で借りてくるのだが、この本は関係者以外の持ち出しは禁じられている。メイアは快く引き受けた。しかも写しではなく、自分が研究に使うという名目で持ち出し、こうしてリシュアを通じて司祭に渡そうというのだ。
本の受け渡しが済んでしまうとメイアも緊張がほぐれたようで、職場の話や最近読んだ本の話などを楽しげに話し始めた。リシュアも部下の旅行の土産の話や寺院での早朝散歩の話を話して聞かせる。
「旅行かあ、いいわね」
メイアは目を細めた。
「夏になったら職場の友達と湖にキャンプに行く予定はあるんだけどね」
「キャンプか、いいね。……ハイキングなら最近行ったけど、雨に降られて大変な目にあったよ」
コーヒーカップを手に両肘をついて話すリシュアの顔にふと笑みがこぼれた。
「大変っていう割りには嬉しそうだわ。聞かせて」
メイアは興味深げに身を乗り出してきた。リシュアは一瞬どきりとする。つい口を滑らしたが、まさか軟禁状態の司祭を地下道から秘密裏に外に連れ出したなどと話せるはずもない。しかしなんとなくあの楽しい顛末を誰かに話して聞かせたいという気持ちはあった。
「あ、ああ。あのさ。……体が弱いからってことで、親から厳しく外出を禁じられてる子供が近所にいてね」
思わずそんな嘘が口をついて出た。
「ふうん。かわいそうね」
子供好きのメイアは本当に心を痛めているような様子で話に聞き入っている。
「だから、両親の留守の時を見計らってこっそり外に連れ出したんだ。ちょっとの間ピクニックに、ってね」
そこから先は嘘はなかった。あの時の司祭はまるで子供のように無垢な顔をして楽しんでいた。眺めを楽しみ、水に触れては微笑み……生き物を愛でる瞳は実に愛らしかった。リシュアはあの時の司祭の表情を忘れることが出来ない。そしてハプニングの雨の後の笑い声。話して聞かせているだけでまたあの体験が蘇るようでリシュアは心が温かくなるのを感じていた。メイアは微笑みながらその話にじっと聞き入っていたが、リシュアの話が終わった後、彼の瞳を覗き込んでこうたずねた。
「不思議ね。それって本当に小さな子供の話なの?」
「え……? ど、どうしてだい?」
リシュアはしまった、と思った。ついつい熱を入れて話しすぎてしまった。無意識に何か辻褄の合わない事を言っていたのだろうか。
しかしメイアは片肘をついて身を乗り出すと、上目遣いにリシュアを見ながら悪戯っぽく笑った。
「だって、今話してた時のあなた……その相手の人に恋してるみたいな顔なんだもの」
「……はぁっ?!」
リシュアはその意外すぎる回答に、驚きのあまり間の抜けた声を上げていた。よりによって司祭相手に恋だなんて、冗談が過ぎる。しかし一方で笑えない気分も確かに感じていた。何せ出会いが出会いだ。美女と間違えてのぼせあがっていたのは間違いない。しかし今は相手が司祭だという事くらい十分に認識しているつもりだ。疑問と確信がぐるぐると頭をめぐり続け、リシュアは血の気が失せたような顔になっていた。
「あら、やだ、まさか図星だったの? 大丈夫よ、恋に年齢なんて関係ないと私は思ってるわ」
そう言ってウインクするメイアの顔がぼやけて見えるような気がした。あとは気もそぞろで、それから何を話したのかさえ覚えていなかった。
それでもオフィスで事務仕事を終え、外で簡単な夕食を済ませて家に帰る頃にはリシュアの心は落ち着いていた。メイアはふざけただけだ。彼女は日頃からああやって悪戯めいたことを言ってはからかったりはぐらかしたりするのだ。彼女の常套手段に引っかかってはいけない。リシュアはグラスに注いだ琥珀色の液体を静かに喉に流し込んだ。
一息つくと、気分は落ち着いてきた。馬鹿なことで動揺したものだ。レコードに針をそっと落とすと、静かで柔らかな音楽が流れ始めた。目を閉じてカウチと音楽に身を委ねるうちに、リシュアは次第に眠りの中に落ちていった。どのくらいそうしていただろう。安らかな眠りは、突然の電話のベルの音に遮られた。
「……はい」
まだ少しぼんやりとした頭で電話に出ると、受話器の向こうからアンビカの声がした。
「あ、ああ、いたのね。よかった」
よかった、と言う割には緊迫した声なのがリシュアは少し気になった。
「どうかしたのか?」
心配そうにたずねるとアンビカは受話器の向こうで一瞬黙り込んだ。何かためらっているようだったが、ひと呼吸おいて思い切ったように切り出した。
「あのね……あなたのお父さんが……倒れたって」
思いがけない言葉にリシュアは息を呑んだ。実家を捨て新しい人生を生きて12年になるが、元々体の丈夫な方ではない父のことは心のどこかで気にかけてはいたのだ。しかしまさかこんな形で父の重症を知るとは思いもしなかった。
「心臓、だったらしいけど今は落ち着いたって。さっきうちにも連絡があって。あなたの連絡先が分かってて本当に良かった」
気遣うように言葉を選んで話しているのがアビの声から良く分かる。
「そう……か。ありがとう」
リシュアはそう言ったきり口をつぐんだ。それを聞いて、自分に何ができるというのか。リシュアは黙ったまま立ち尽くしていた。
「ねえ、顔だけでも……見せてあげたらどうかしら」
察したようにアビがおずおずと切り出した。
「今更帰れないさ」
考える前にそう口をついて出た。多分それが本心だ。常にそう思ってきた。自分の勝手で飛び出して、気ままに生きてきたのだ。今更会わせる顔などない。
「……そんなことないと思うわ」
アビが今度は強い語調で言った。
「みんな心配こそしたけど、あなたを悪く言う人はいなかったわ。今でもそうよ、きっと」
そんなアビの言葉はリシュアの心を少し軽くした。
「わかった。考えてみるさ」
今はそれだけ答えるのが精一杯だった。再び礼を言ってからリシュアは受話器を置いた。
翌日も運転をしながら頭の中を父のことが何度も過ぎった。ハンドルを旧市街に向ければいいだけだというのに、ただそれだけのことがどうしてもできなかった。先日のピクニックの時は何も考えずに実家の領地に入れたというのに、今はひどく遠い地に感じる。そんなことを考えているうちに気がつけば寺院の手前の橋に着いてしまった。
重い足で寺院にむかい、橋の上から旧市街を眺めた。赤い煉瓦の建物と灰色の瓦の屋根がひしめき合う古い町並み。細い路地を駆け回った子供時代を思い出す。振り切るように視線を戻し、門をくぐって寺院の庭に入った。
まず最初に司祭の部屋へ向かった。手にしているのはメイアから預かった例の美術書だ。いつものようにベルを鳴らし、しばらくして司祭がドアから姿を現す。常に薄暗いホールの中で司祭の姿が白く浮き上がって見えた。その顔を見て、リシュアはどきりとした。父のことでぼんやりとしていたが、改めて司祭の顔を見たリシュアの脳裏に昨日のメイアの言葉が鮮明に蘇ってきたのだ。
「ど、どうも」
リシュアは思わず司祭から目を逸らした。逸らしたまま本を差し出す。
「これ……先日の司書からの預かり物です。ご要望の美術書……」
「ああ!」
司祭は嬉しそうに目を見開いて笑顔で大事そうにそっと受け取った。袋から取り出し、表紙を眺めてはため息をついた。
「こんな貴重なものを……有難うございます。メイアさん、でしたか。司書の方にも宜しくお伝えください」
あのピクニック以来、司祭はリシュアに見せる表情が更に豊かになったように思える。それはそれで嬉しいことなのだが、今この状況でそんな顔をされるとリシュアは意味もなく鼓動が激しくなるような気がして戸惑うばかりだった。メイアの余計な言葉に改めて心の中で舌打ちをした。
「はい。彼女も司祭様に宜しくと言っていました。ここを見せて頂いたことが余程嬉しかったようですよ」
平静を装って笑顔で答えると、司祭はふとリシュアの顔を覗き込んで小首を傾げた。
「……どうかなさいましたか?」
リシュアははっとして思わず息を止めた。心の中を見透かされたかと背中に汗が流れるのを感じていた。
「なんだか顔色が優れないようです。何か心配事でもおありですか?」
「あ、ああ……ええ、いえ」
しどろもどろになりながらも、その言葉を聞いてリシュアは内心ほっとしていた。おそらく司祭は父の心配をしていることを読み取ったのだろう。
「ちょっと身内に病人が出まして、ああ、でも大したことはないのです。ご心配をおかけしました」
素直にそう話すと、何故か心が軽くなった気がした。相手が司祭という職業だからだろうか。リシュアには信仰心はないので懺悔の習慣はないが、心配事というものは誰かに話しただけで少し気が楽になるものなのかもしれないと思った。
「そうですか、それはご心配ですね。お見舞いにはいかれたのですか? もしもこれからなのでしたら是非裏庭の花を好きなだけお持ちくださいね」
司祭は本当に心を痛めている様子でそう勧めた。
「あ、いえ……」
リシュアは口ごもった。どこまで司祭に話すべきか、頭の中で考えが駆け巡る。折角信頼を得た相手に嘘はつきたくない。しかし今更身の上話をする趣味もない。
「では、その時は遠慮なく」
やや強張った笑顔でそれだけ答え、軽くお辞儀をするとそそくさとその場を後にした。
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