風が吹く前に 第2部 (7)                       目次

 翌日もリシュアはオフィスに出向いてミレイと共に書類の整理に追われていた。年度末が近いこともあり、処理すべき雑用は増える一方だった。未熟だった部下達も最近は警備に慣れてきたこともあり、寺院は彼らに任せてリシュアはオフィスで過ごすことが増えていた。とはいえ退屈な事務仕事から逃れる絶好の理由である寺院へは、用がなくとも時々足を運んではいるのだが。
 「なんでこんなに道路工事が多いんだ」
 うんざりしたように吐き出すと、リシュアは書類をデスクの上に放り出し椅子の背もたれを軋ませて大きく伸びをした。そんな愚痴にはすっかり慣れっこになっているミレイは、子供をあやすように素早くコーヒーとチョコを上司のデスクに運ぶ。
 「今年は20周年だから、凱旋パレードも大々的に行なわれるそうじゃありませんか。きっとそのせいですよ」
 リシュアは早速秘書が運んできたチョコを口に運ぶ。甘さを抑えたチョコの苦味と香りが口に広がり、少し疲れが和らいだ気がする。口に残った僅かな甘みを苦いコーヒーで流し込む。
 「パレード?」
 胡散臭そうに聞き返す上司に、呆れたようにミレイが聞き返す。
 「……まさか凱旋パレードを知らないとは言わないですよね?」
 リシュアはうーん、と唸って顎に手を当ててしばらく考えたあと、ああ、と小さくつまらなそうに呟いた。
 「なんかニュースで見たことはあるな。くだらん、実にくだらん」
 軍の年間行事のひとつであるクーデターと新政府樹立を記念するパレードの映像を思い出し、リシュアは顔をしかめた。
 「あんなもんのために俺の仕事が増えるかと思うとやりきれんね。……という訳で少し早いが今日はもう終わりにしよう」
 あっさりと立ち上がって帰り支度をする上司に、さすがにミレイも慌てて引き止めた。
 「ちょっと待って下さい中尉! 何だか適当な口実作って早く帰りたいだけじゃないですかっ」
 「ばれたか」
 さらりとそう返しつつも、リシュアは帰り支度をやめようとしない。ミレイは諦めたように腰に手を当てて上司の背中を眺めている。リシュアが車のキーを手にしてドアの前に立ったとき、それを待ち構えていたかのようにノックの音がした。
 「はい? どうぞ」
 リシュアの背中越しにミレイがドアに向かってノックの主に声をかけた。軽くドアが開き、姿を現したのは柔らかい微笑みを浮かべたオクトだった。
 「なんだ、お前か」
 帰宅のタイミングを邪魔されてあからさまに嫌な顔をするリシュアと、いつもの如く嬉しそうな様子を隠さないミレイが彼を迎えた。
 「なんだ、帰るところだったのか? 悪かったな。……ちょっとだけ、いいか?」
 オクトは親指で外を指した。お茶を煎れようとしはじめていたミレイは残念そうに顔を曇らせる。
 「あら、少佐。よかったらたまにはこちらでお茶でも如何ですか?」
 その呼びかけに初めてオクトはミレイに気付いたような顔をした。
 「……あ、ああ、すまない。ちょっと込み入った話なのでね。君の美味しいお茶はまた今度改めてご馳走になるよ」
 そうにっこりと笑いかけられると、ミレイは嬉しそうにはい、楽しみにしています、とお辞儀をした。そして、ふと思い出したように自分のデスクに駆け寄り、何か縦長の箱を取り出してきておずおずとオクトに差し出した。
 「あの、これ、良かったら……旅行のお土産なんですけど。なかなかお渡しできなかったので遅くなっちゃいましたが」
 「あ、ありがとう」
 突然手渡された土産に戸惑いながら、オクトは礼を言ってミレイを見返した。そして手にした土産の箱をしげしげと眺めてから、嬉しそうに微笑んで軽くお辞儀をした。正面から見られて、ミレイは思わず赤くなる。日頃口うるさい秘書のそんな姿を奇妙な気分で眺めながらふとオクトの手元を見ると、それは明らかに高級そうなエルベ地方特産のリンゴ酒だった。差をつけたな、と思わずじろりとミレイを見ると、視線に気付いたミレイはえへへ、と誤魔化すように笑って肩を竦めて見せた。

 

 「……で、話ってのは?」
 少し落ち着かない気分で、それでも平静を装ってリシュアは自分から話を切り出した。というのも、先日オクトから忠告を受けたにもかかわらず、結果としてアンビカと再び付き合い始めてしまったことや、父のことで実家に帰ろうかと迷っていることなどを少々負い目に感じていたからだ。しかしオクトの口から出たのはリシュアの予想に反したものだった。
 「実は……。あんな事を言った後で頼むのも虫がいい話と思うかもしれんが、旧市街での捜査を手伝ってもらえないかと思ってな」
 「旧市街の? なんでまた……」
 軍の警察機構がこの国全土を掌握しているとはいっても、まだまだ貴族達との力のバランスは微妙だ。表向きは軍が仕切っているようにはなっているが、実際旧市街の犯罪については貴族の私設警備隊や旧市街の自警団に実権を委ねている。余程のことがない限りはオクト達が旧市街の事件の捜査をすることはない。オクトは少し難しい顔をした。
 「うん、実はな、今まで新都心に限られていたタイプの猟奇事件が最近旧市街でも起こったということで、同一犯人の可能性も考えて我々の所に協力の要請があったんだ」
 「猟奇事件、か。しかしもう何件かは解決したはずだろ? 何か共通点とか糸口はないのか」
 もちろんオクト達も手をこまねいているだけではない。頭部だけが持ち去られた遺体、明らかに人間の歯形で内臓を食い荒らされた遺体。そういった類の被害者が続けて発見されてきた。そしてもう既に数件の連続殺人事件は解決済みだ。しかしそれでも怪しげな噂を伴う事件が後を絶たない。
 「共通点、か。あるにはある。……なあ、この前の寺院の侵入者を覚えてるか?」
 オクトは声をひそめた。
 「覚えてるか、だと? 忘れるわけがないだろう」
 リシュアは少し憤慨したような声で返した。結局あのままリシュアには何の情報も与えられることはなく、事件は完全に闇に葬り去られた。面白くないのは当然だ。
 「あの時俺は言ったよな。先天性の病気で異常な能力が目覚める可能性が考えられる、って」
 「まあな。しかし本当にそんなものがあるのか。俺はオカルトは信じたことがないんだがな」
 まるで信じていないような様子だが、それでもリシュアはオクトの話に耳を傾けた。謎が残っている限り、どこかに答えがあるはずなのだ。
 「真偽の程はまだ分からない。だが、それを本気で信じて、しかも崇拝している連中がいる。イリーシャ、という団体だ」
 「イリーシャ?」
 リシュアは初めて聞く名前だった。
 「まあ、俗に言うカルト教団だよ。しかも過激な連中だ。奴らはルナス正教を曲解して妄信している。人の命よりも教えを重んじる危ない奴らさ。まだ捜査の段階だが、猟奇事件の中でも人間離れした行為はイリーシャが崇拝するその異能者によるものじゃないかと俺は見てる」
 オクトは飲んでいた赤いオレンジジュースのストローをゆっくりと回す。カラン、と氷のぶつかる音がした。
 「気味の悪い話だな。じゃあなんだ。頭のおかしい連中がバケモノを飼っててそいつらが人を食ったりちぎったりしてるってのか」
 あからさまに顔を歪めるリシュアをオクトはじっと見つめた。
 「俺の思い違いならいいと思うよ。本当にな」
 そして暫くの沈黙が流れた。彼らが居るカフェには学生や若いカップル、仕事帰りらしき中年のスーツの男などが食器の音と話し声を響かせて楽しげに過ごしている。そんな日常の中にいて、リシュアはこんな奇妙な話をしている自分達が何かおかしな空間に捕らわれてしまったような気分に襲われていた。
 「……で、俺に何をしろっていうんだ」
 にわかには信じられないようなそんな事件に関わって、自分が何かの役に立つとはとても思えなかった。オクトは更に難しい顔をした。
 「情報が欲しい。まずは何でもいいから情報がな。それには俺達は旧市街についてあまりにも何も知らなすぎる。調子の良い話だが、お前に一緒に行動してもらえれば心強いんだ」
 そう言うオクトの言葉を聞いても、リシュアには正直自信がなかった。自分が旧市街を離れてもう10年以上になる。知り合いも少なくなったろうし、街だって大分変わったろう。オクトが期待するような働きが自分に果たして出来るのだろうか。そんなことを考えながらじっとテーブルの上のカップを見つめていると、オクトが再び口を開いた。
 「お前なりの理由で街を出たのに、今更それを利用させて欲しいだなんて勝手なことを言っているのは十分理解してる。済まないとも思ってる。だが、なんとか頼まれてくれないか」
 オクトはそう言うと、テーブルに手を付いて頭を下げた。驚いたのはリシュアの方だ。柔和な雰囲気は持っているものの、オクトが自分に負けない程の頑固者なのは長い付き合いで良く知っていた。こんな風に軽々しく頭を下げる男ではないのだ。
 「お、おい、やめろよ。違うんだ。俺は構わないさ」
 リシュアに無理矢理頭を掴まれてオクトはきょとんとした顔で頭を上げた。
 「そうじゃない、お前の手伝いをするのは全然構わんさ。ただ、俺で役に立つものかと不安になってただけだ」
 それを聞いてオクトの顔がぱっと明るくなった。
 「そうか。有難い。いや、お前が一緒に行動してくれるだけで本当に助かるよ」
 ああ、よかった、と言ってオクトは椅子の背もたれに体を預けて大きく息を吐いた。屈託のない笑顔が戻ってきていた。
 「全く。貸しもないのにお前に頭なんぞ下げられると後が怖い。もうああいうのはやめてくれ」
 笑顔のオクトに反してリシュアは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。しかしその顔はどこか嬉しそうだった。友人に頼りにされていると思えばやはり悪い気はしないものだ。

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