風が吹く前に 第2部 (8)                       目次

 翌日、中央警察機構旧市街支部のロビーで待ち合わせたリシュアとオクトが最初に向かったのは地下1階の資料室だ。オクトは資料室にあるものとは別にアタッシュケースに入った書類を持参しており、それらをデスクの上に並べ始めた。タイプされたものから手書きのもの、図面や地図の他に写真もあった。やや薄暗い資料室の古いデスクの上に置かれたそれをリシュアは手にとっては眺めていった。写真はほとんどが遺体を写したもので、一部だけが炭になったもの、驚くほどに綺麗に首だけを切り取られたもの、全身に無数の切り傷がつけられたものなど奇妙なものばかりだった。
 「中にはまだ事件と認定されていないものもある。自然発火やカマイタチのような超自然現象と言う者も少なくない。だが俺はこれも全てイリーシャの仕業じゃないかと睨んでるんだ」
 そう言ってから、オクトは鍵を取り出して資料室のロッカーを開けると別の書類を取り出した。
 「これが今回旧市街で起きた事件の資料だ。イリーシャだとすると、検問を突破したか旧市街にも勢力を伸ばしてきたかのどちらかだと思う」
 2つの街で起きた事件の資料を1つのデスクに並べて、オクトは沈痛な面持ちでそれらに目を落としている。しかしリシュアはどこか腑に落ちなかった。
 「……なあ、どちらも奇妙な事件だし、俺はそのイリーシャについて全く知らない。だが俺にはお前が初めからそいつらの仕業だと決めつけ過ぎているように思えるんだが」
 先入観を持って捜査にあたってはいけない、というのはいつものオクトの口癖だ。なのに今回のオクトにはその冷静さが欠けているようにリシュアには思える。言い出しにくいことではあったが、間違いと思ったことを素直に指摘するのも友としての役割と信じてリシュアははっきりとオクトにそう告げたのだ。
 オクトは思いつめたような顔をふと上げてリシュアに視線を移した。
 「ああ、お前が言いたいことは良く分かるよ。そうだな、そう思って当然だ。だが、俺がこんなことを言うには他にも理由があるんだ」
 そう言って、オクトはさらに階下へとリシュアを案内した。古い煉瓦作りの天井の低いそこは死体安置所だった。床は濡れて滑りやすくなっている。リシュアは閉塞感を覚えてシャツのボタンを1つ外すと大きく息を吐いた。
 「これが今回見つかった遺体だ」
 少し錆付いた取っ手を掴んで引き出すと、軋むような音と共に厚手の木でできたロッカーがせり出してきた。そこに横たわっていたのはミイラ化した遺体だ。
 「随分古いものじゃないか」
 「そう思うだろう?」
 30代と思しき青年の写真が付いた資料をオクトが差し出した。
 「彼はトーラス=ヘイン、34歳。銀行員だ。5日前に職場を後にしたまま帰らず、2日後に公園の森の入り口でこの姿で発見された」
 「5日……」
 リシュアはまじまじとその遺体を見つめた。30代とは思えない、ましてやそんな最近まで生きていたとは信じられないような、土色の干からびた遺体。顔も体も皺だらけで、眼窩は落ち窪んでひび割れ、半開きの口から覗く舌も石のようになっている。
 「尋常な犯行ではないよ、これは。……そしてもう一つ。彼もまた異能者だという噂のあった男なんだ。予知のようなことができるということで、趣味のように占いまがいのことで小遣い稼ぎをしていたらしい」
 「……彼も、というと?」
 リシュアは焦れたように聞き返した。聞く話全てが分からないことばかりで、情報を得るたびに却って混乱していくような気がしてならない。
 「俺がこの事件がイリーシャの仕業じゃないかと思う理由の一つに、被害者の多くに例の異能者が含まれているということもあるんだ。イリーシャの教えは異能者……つまり天女の力を持つものを神に還すというものが基本なんだよ。だからこそ異能者を崇めもするし、殺すことで神に還そうともしているということさ」
 「なるほど……」
 そこまで聞いて、ようやくリシュアはオクトの言うイリーシャと今回の事件、そして異能者の関係が少し理解できた気がした。しかし本当なのだろうか。そもそもその教団の教えとやらが突飛すぎてにわかに理解できるものではなかった。しかしオクトは既にこの事件の前にも数多くの事件を追ってきている。情報も多く持っているのだろうし、何よりリシュアはオクトの捜査に関する勘というものを信じていた。
 オクトはリシュアに資料を手渡した。
 「忙しいとは思うが、目を通しておいてくれると助かるよ。今日は別の聞き込みがあるんで俺はこのまま失礼するけど、お前さえ準備ができたら一緒に旧市街で聞き込みをして回りたいと思う。連絡を待ってる」
 真剣な眼差しで見つめて固く握手をすると、オクトはそのまま足早に出口へ向かった。最後に振り返り、感謝の意を込めたような笑みを向けてからドアを閉めた。後にはリシュアと遺体と資料だけが残された。リシュアは資料の束の角で頭を掻きながらもう一度遺体の顔を覗き込んだ。口を半開きにした顔は怯えているようにも、微笑んでいるようにも見えた。
 「……予知の力で自分の死に顔は見れなかったのか?」
 ぼそりとそう呟く声に返すものは誰も居なかった。

 

 車に戻り、助手席に資料をバサリと放ってリシュアはぼんやりとフロントガラス越しに旧市街の街並みを見た。しばらくじっと考え込んだ後、大きなため息をひとつ吐き出して、エンジンをかけると車を走らせた。
 細い裏通りは、少年の頃に見たよりもやけに細く小さく古びて見えた。しかしその先へ続くのは昔馴染みの光景で、不思議なほどに何も変わってないようにも思えた。古くて不揃いなでこぼこの石畳の道。煉瓦と煤けた白壁の家の窓から向かいの窓へと洗濯物がかけられている。子供達が道端で遊んでいるところでスピードを落とす。しばらく走ると大通りに出た。そこを真っ直ぐどこまでも走って、行きついたのはルーディニア子爵家…リシュアの実家の屋敷だった。石と鉄でできた威圧的な門がそびえ立っている。柵から覗くのは広い芝生の庭と、重厚な石造りの巨大な屋敷だ。その手前には白い大理石で作られた人魚の像と噴水。そして庭の両側にはバラのアーチが続いている。
 リシュアが門の前に車を停めると、中から険しい顔で初老の黒服の男が飛び出してきた。
 「おい君、ここはルーディニア子爵様の……」
 言いかけた顔が強張り、目が大きく見開かれた。
 「こ、これは……坊ちゃま?! ご無事で……お戻りで……」
 今にも泡を吹きそうな初老の男の肩をポンと叩いてリシュアは苦笑いした。
 「落ち着けよファサハ。心配かけたみたいだな。親父のこと聞いてな……入って、いいかな」
 ファサハと呼ばれたその男は目を白黒させながら大きく深呼吸して、まじまじとリシュアの顔を覗き込んだ後、慌てて白い手袋をした手を前に差し出してリシュアを屋敷に招いた。小柄だが、身奇麗な執事だ。白いものが多く混じるその髪も丁寧に整えられており、几帳面な性格が見てとれる。
 「も、勿論ですとも坊ちゃま。ささ、皆が坊ちゃまのお帰りをお待ちしておりましたんですよ!」
 リシュアは更に苦笑いした。
 「坊ちゃまはよしてくれよ。リシュア、でいい」
 「ああ、これは失礼を坊…リシュア様。お父上もどんなにお喜びになるか……」
 ファサハは嬉しそうに潤んだ目に純白のハンカチを当てながら数あるドアをどんどんと開けてリシュアを中へと案内していく。屋敷は広く天井も高く、質の良い木材を丁寧に仕上げた歴史のある建物だ。ところどころに写真や絵画、時代を感じさせる美術品が飾られている。屋敷の中には見知った顔もあれば初めて見る若い顔もある。それぞれがリシュアの突然の帰還にざわめいた。
 「何ですか、騒がしい。静まりなさい」
 短く厳しい声がした。一瞬で場が静まる。声のした方に目をやると、深緑の長いドレスを身に纏った黒髪の女性が階段を静かに下りてくるのが見えた。
 切れ長の目に緑の瞳。背中まで編まれた黒い髪。堂々と威厳に満ちたその女性は、リシュアを一目見て一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに平静に戻り落ち着いた声で呟いた。
 「カスロッサ……」
 「姉さん」
 12年振りの姉弟の再会だった。しかしお互い言葉もなく見つめることしかできなかった。姉は亡くなった母に良く似ていた。母も気丈な人だったが姉も同じように育ったらしい。長男のいなくなった家を一人で守ってきたのだろうか。リシュアは黙って姉の言葉を待った。拒絶か、罵倒か、辛辣な嫌味か。何を言われても甘んじて受けるつもりで戻ってきた。じっと姉を見つめた。
 「お父様は2階にいらっしゃるわ。まだ眠っていらっしゃるかもしれないから静かにお入りなさい」
 姉はそれだけ言うと音もなく階段を下りてリシュアとすれ違い、立ち去った。残り香は母と同じ香水の香りがした。
 リシュアは肩透かしを食らったような気分になり、ただ黙って姉の背を見送った。
 「サリート様は7年前に婿殿をとられてルーディニア家に残られたのです」
 ファサハは静かにリシュアの無言の疑問に答えた。少なくとも姉は一人ではなかったらしい。そう思っただけで僅かにリシュアは安心することができた。心の中で姉の寛大な態度に礼を言い、リシュアは静かに階段を上がった。一際大きな扉をファサハがそっと開けた。天蓋のついた広いベッドの上に父が横たわっていた。ベッドの横には水や点滴の装置が置かれ、透明なチューブが父の腕に繋がれている。
 老けたな。まずそう思った。若い頃は女性に間違われたこともあるというふっくらとしていた頬は痩せて皺が刻まれている。心臓が悪いと聞いてはいたが、やはり顔色もひどく悪い。眠っているのか、目を閉じているのを見ると本当に息をしているのか心配になる程だ。リシュアは静かに枕元に近づいた。ふと、父が目を開けた。しばらく泳いだ視線がリシュアを捉え、一時じっと見つめた後、ふっとその顔に笑みがこぼれた。
 「ああ、今お前の夢を見ていたよ。カスロッサ」
 「……具合はどうだい」
 リシュアはそっと父の髪の乱れを直した。リシュアのくせのあるプラチナブロンドは父譲りだ。鏡を見るたび父の若い頃に似てきたと日頃から思っていた。12年という月日が流れても決して消えない血の絆をリシュアはその手で感じていた。
 「ああ。お前は元気か」
 思わず苦笑しながらリシュアは感極まった自分の気持ちを抑えていた。重篤だと聞いていた父が自分の心配をしているのがやりきれなかった。
 「父さんが元気になれば後は全て順調さ」
 父は静かに頷いて目を閉じた。息子は微笑んでその寝顔を見つめた。そして静かに呟いた。
 「また来るよ。だから早く良くなって」 

 

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