風が吹く前に 第2部 (9)                       目次 

 再び眠りに落ちた父を起こさぬようそっとドアを閉めて廊下に出た。ようやく肩の力が抜けた気がした。改めて家の中を見回すと、昔と何も変わっていない気がした。時代を経た壁や床も古い家の匂いもそのままだ。ここが自分の居場所だとは感じないが、自分の一部は確実にこの場所に根付いている。
 おずおずとファサハが歩み寄ってきた。
 「リシュア様のお部屋はそのままになっておりますよ。良かったらご覧になっていかれませんか?」
 正直意外だった。突然飛び出し生死も分からぬ状態で12年も経った自分の部屋などとうに片付けられているものと思っていた。リシュアの胸がどきん、と鳴った。しかしそれが嬉しいのか驚いたからなのかそれとも何か他の感情なのかは自分でも良く分からなかった。
 「ああ、有難う。勝手に見に行っていいかな」
 「当然ですとも」
 ファサハは嬉しそうに微笑んだ。リシュアはそのまま自分の部屋へ向かった。大きな屋敷の入り組んだ廊下を体はちゃんと覚えていた。無意識に足は部屋へとリシュアを導き、そしてドアの前でぴたりと止まった。ドアノブに手をかけながら少し胸が高鳴るのを感じていた。そっとドアを開け、薄暗い部屋の中へ進む。閉めきられた厚手のカーテンを開けると春の日差しが射しこみ、部屋を明るく照らした。贅沢な刺繍を施したシルクのカーテンは多少日に焼けてはいたが、他に傷みもなくしっくりと手に馴染んだ。
 振り返ると、まるで変わらない自分の部屋があった。ベッドの脇に置かれた靴も、机に並べられた本やペンも、飾り棚に納められた鉛のドラゴンや騎士の人形達、そして壁に掛けられた12年前のカレンダーまでが何一つ動かされることなく変わらずにそこにあった。それでいて部屋には埃ひとつなく、ベッドからは太陽のにおいがしていた。何時帰ってきてもいいように、12年の間ずっと掃除されて自分を待っていた部屋。リシュアは胸が熱くなった。この家を異国のように遠く感じていたのは自分ひとりであったのか。飾り棚から一番お気に入りだった髭面の斧使いの像を取り出して指で弄び、一人微笑んだ。ふと思い出して飾り棚の裏を手で探る。指に触れたものを取り出すと、それは小さな鍵だった。机の一番大きな引き出しの底板を外すと鍵穴の付いた木の蓋が出てきた。先程の鍵を挿しこんで回すと、カチリと軽い音を立てて鍵が開く。リシュアはその蓋を持ち上げた。
 「なんだこりゃ」
 出てきたのは、ほとんどがガラクタだった。鍵をかけていたのは覚えているが、実際何が入っていたかなど覚えていない。改めて中を探ってみると、ひび割れた水晶の玉や記念金貨、射撃大会で貰ったメダルなどが大事に仕舞ってある。リシュアは当時の自分が余りに微笑ましく感じられ、思わずくすりと笑ってしまった。他には赤と金の表紙の日記もあった。これはさすがに今更読む気にはなれなかった。何が書いてあるかなどとうに忘れたが、青臭い日々の記録など読んだら体が痒くなってしまいそうだ。苦笑しながら日記をどかすと、青いベルベットの四角い包みが顔を覗かせた。一際大事そうに仕舞われているが、やはり記憶にない。少し戸惑った後、リシュアはそれを取り出して恐る恐る開けてみた。中から出てきたのは1枚の写真だった。正装した立派な髭の男性と豪華なドレスの美しい女性、そしてその間に椅子に座った愛らしい女の子が写っている。女の子は5,6歳といったところだろうか。レースをふんだんに使った、それでいて上品な可愛らしいドレスを着て微笑んでいる。
 「あ……」
 リシュアは凍りついた。一気に記憶が蘇り、軽い眩暈のようなものを感じていた。何故。何故今まで忘れていたのだろう。
 その写真は前皇帝の一家……ゲリュー王家のものだ。クーデターが起こる前の、幸せな家族の姿だ。まだ皇帝や貴族に権力があり栄華を誇っていたその頃は、どの家庭にも必ず皇帝の写真が飾られルナスの神と共に愛され崇められていたのだ。しかしクーデターが起こり、皇帝と貴族はその力を失い皇帝の写真を飾ることは軍によって固く禁じられ、その権力を誇示するようなものは集められ焼かれた。本来は所持してはいけないものなのだ。これは、禁忌のもの。リシュアが記憶から消していたのもそのためかもしれない。
 リシュアは皇帝に傾倒していたわけでも、必要以上に尊敬していたわけでもない。ただ、この愛らしい少女の姿を初めて見た時から彼の心を捕らえて放さず、手放すことができずに人知れずこうして隠し持っていたのだった。
 「……って、待てよ」
 皇帝には子供は一人しかいなかったはずだ。そしてその子が育って寺院に幽閉されて今に至っている。つまりこの少女が司祭の幼少の頃の姿だということだ。リシュアは写真を掴んだまま呆然と立ち尽くした。これはどういうことなのか。王家や貴族の間では幼い男子を魔よけの意味を込めて女装させるしきたりもある。しかし、公的な写真にまでそのような格好で写るということがあるだろうか。
 「待て待て待て……」
 リシュアは一人呟いて、混乱した頭を整理しようと大きく息をついた。
 「まさか司祭は女……?」
 そう言ってから、あの雨のピクニックの日を思い出した。雨に濡れた司祭のシャツは水で少し透けていた。その胸元はどう見ても女性ではなかったように思う。
 「あれで女だとしたら余程ぺったんこ……って、あああ! 何言ってんだ俺は」
 言ってから不謹慎だと感じてリシュアは一人自己嫌悪に陥り自分の頭を叩いた。ひとしきり落ち込んだ後、はあ、とため息をついてから気を取り直し再び頭をひねった。
 「写真の女の子が皇帝の娘だとすると、司祭は……誰だ?」
 もう一度写真をじっくりと見つめる。古い写真は色が褪せてはいるが、その長くゆったりと巻いた美しい栗色の髪と大きな菫色の瞳、そして陶器のような白い肌と綺麗な顔立ちは幼いとはいえ今の司祭の面影そのままだ。眉根を寄せて写真を見つめていると、ドアの外からファサハの声がした。
 「リシュア様、お邪魔して申し訳ありません。もし宜しければお茶をお持ちいたしますがいかがでございましょう」
 その声に我に返ったリシュアは時計を見た。驚いたことにこの部屋にもう1時間ほど居たらしい。リシュアは慌てて写真を布に包みなおした。そして適当な本をとり、その間に挟んだ。
 「あ、ああ、いや。今日はもう帰らないと」
 このままお茶まで飲んで行くほどに彼も厚顔ではない。ドアを開け、残念そうなファサハに微笑みかけると、リシュアは玄関に向かって歩き出した。
 「今日は来て本当に良かったよ。有難う。……次は何かうまい菓子でも持ってくるさ」
 

 

 翌日、リシュアは中央図書館に足を運んだ。カウンターの奥に座っているメイアに軽く手を上げて挨拶をすると、歴史の本の並んだ棚に足を運ぶ。美術史の隣に宗教学の本がずらりと並んでいた。あまりに膨大な量の書籍に圧倒されてしばらく固まっていたが、気を取り直して手当たり次第に本を棚から取り出し机の上に積み上げた。
 宗教嫌いがこんなところで仇になるとは思わなかった。こんなことなら学生時代にもう少し真面目に宗教学を学んでおけば良かった、などとありがちな後悔をしていると誰かが傍らに近づく気配がした。メイアだ。地味なメイクや服装に真面目そうな眼鏡、いつものデートの時とはまるで別人のような目立たない姿だ。そっと周りを見回した後、声を潜めて耳元で囁いた。
 「珍しい人が珍しい本を読んでいるわ。きっと明日は雨ね」
 そして顔を近づけたまま優雅に笑った。つられてリシュアも微笑んだ。
 「これも仕事さ。しかしどこから手をつけていいかまるで分からんよ」
 そうぼやいて肩を竦めて見せると、メイアはその肩に手を置いて軽く撫でた。
 「何か調べるなら私が手伝うわよ。伊達に宗教学専攻してないんだから」
 メイアの手にそっと触れてリシュアはにっこりと笑った。
 「助かるな。……で、それは君の家に行って良いってことかい?」
 軽く頷いたあと、もう一度笑ってメイアはリシュアの肩をぽんぽんと叩いた。
 「……お仕事の手伝い、でね」
 リシュアの笑顔が強張ったのを見て思わず噴出したメイアはきょろきょろと見回した後、指を口の前に立ててウインクした。
 「じゃ、家で待ってて。電話するから」
 そう言ってメイアは再び仕事の顔に戻ってカウンターの方へと歩いていった。 
 


 何冊かの本を借りて家に戻ったリシュアはベッドに寝転がってルナス正教の歴史を分かり易くまとめたものをパラパラと眺めていた。ルナス正教を国教と定めたゲリュー王家は神話の時代から続く大陸最古の王家だ。ルナスの大地の神とその使いである天女を崇めるルナス正教も王家と同じく歴史を繋いできた。天女と王家とルナス正教。これらはそれぞれが絡み合って長い歴史の中で人々の心を繋ぎとめてきた。しかしルナスの地に他の大陸から他民族が多く集まるようになり、それらの統治も必要になったころから求心力は徐々に弱まり各地で内乱が多くなった。その内乱が国の力を更に弱めてルナスは徐々に衰退していった。そんな状態を見ていられなかったのが軍の強硬派だ。彼らは穏健派の元老院のやりかたに反発し、ある日突然王家に反旗を翻した。弱体化していた貴族の私設軍はほぼ無抵抗で制圧されたが皇族達は最後まで抵抗したためにほとんどが処刑された。唯一生き残った皇帝一家も、皇帝と皇后は離宮に移動の最中に謎の事故死を遂げた。残されたのはゲリュー=フェリア=フィルアニカ。つまり現在のルナス正教のたった一人の司祭だ。ルナス正教も現在は国教から異教にその地位を落とし、布教を禁じられて細々とカトラシャ寺院でのみの活動を許されているだけになっている。
 「なるほどねえ」
 ざっと読んだだけだが、目新しいことは特に書いていない。ルナス正教に関しては検閲も厳しい。なかなかリシュアが求めるような情報は図書館のような場所では手に入らないかもしれない、とリシュアはやや諦めに似た気持ちになった。
 ふと、積まれた本の横に実家から持ち帰った本があるのが目に入った。少年時代によく読んでいた冒険活劇の本だ。何気なく手にした1冊だったのだが、懐かしさに再び手にとって開いてみた。3人の少年が不思議な老人に導かれてドラゴンの洞窟や魔王の塔を旅する有名な物語だ。子供向けの人形劇にもなっている。昔は熱心に読んだものだが、今ではそれほどわくわくしない。こういうものは記憶の中に留めておくだけの方がいいのかもしれないな、とリシュアは少し寂しい気持ちになった。
 本を閉じて戻そうと思った時、例の写真が布に包まれたままぱらりとベッドに落ちた。少しためらった後、リシュアはまた写真を取り出してじっと眺めた。何故こんなにもこの写真に心惹かれるのだろう。無意識にリシュアは写真の少女の髪を指でなぞっていた。自分のその仕草に気付いた時、リシュアは自分が少年の頃、やはりよくそうしていた事を思い出した。そうして、同時に記憶が蘇った。彼女はまだ幼かったリシュアの初恋にも似た気持ちの相手だったということを。
 それを自覚した途端、何だか急に気恥ずかしくなり、リシュアは慌てて写真を本に挟み込んだ。そしてその時突然電話のベルが鳴った。
 「うお……は、はい」
 自分のどぎまぎした姿を誰かに見透かされたような気がしてリシュアは動揺を隠せないまま電話に出た。
 「あらっ。なんだかいけない時に電話しちゃったのかしら」
 受話器の向こうで不思議そうにたずねたのはメイアだった。
 「思ったより早く帰れたの。良かったら今から来ない? 食事は出前になると思うけど」
 くすりと笑って言ったのは、これがデートではないと念を押すためだろう。
 「ああ、じゃあ何か簡単なものを買っていくよ。仕事の手伝いをしてもらうお礼に、ね」
 了解の意味も込めてそう答えると受話器を置いた。

 

 第2部 (8) ←   → 第2部 (10)                                  

目次 ←


 

inserted by FC2 system