風が吹く前に 第3部 (11)                       目次 

 「それからお前に話しておくことがある」

 リシュアは睨みつけるようにクラウスを見た。クラウスは不思議そうに見返している。

 「……役所でライザ=クラウスという名前を探した。だがお前と同じ特徴の男でその名前の人間は存在しないことが分かった。つまり、お前の本当の名前はクラウスじゃないってことだ」

 クラウスは目を見開いた。名前さえ本物でないことがかなりショックだったようだ。

 「……俺は何者なんだ……」

 困惑するように俯き、小さく呟く。リシュアはそんなクラウスを冷ややかに見つめる。

 「偽名を使って侵入してきた。しかも銃を持っていたかもしれない。記憶がないとはいえそんな奴を司祭様に近づけるのは本来認めたくない。司祭様がお前を信じきっているから仕方なくこうしているだけだ。お前からは一切司祭様に近づくな。記憶が戻ればここを出てもらうんだからな」

 個人的な感情が含まれていないといえば嘘になる。しかしリシュアは本心からクラウスを警戒していた。

 

 クラウスは暫くじっと何か考え込んだ後、ふっと顔を上げてリシュアを強い視線で見つめた。

 「……確かに俺は記憶もないし、自分が何をしにここに来たかも分からない。でも、これだけは言える。俺は、フィルアニカさんが好きだ。あの人を傷つけるようなことは決してするはずがない」

 好き、という言葉にリシュアは眉を顰める。

 「それでも俺は信用しない。司祭様に近づくな。最近の馴れ馴れしい態度は目に余るぞ」

 もはやこうなるとただの嫉妬だ。クラウスもそれを感じ取ったらしい。少し意地悪くくすりと笑った。

 「やきもちかい? だったらそんな回りくどい方法で俺を遠ざけようとしたって駄目だ。俺はフィルアニカさんへの気持ちを誤魔化す気はない。中尉さんも正面から勝負してくることだね」

 突然の宣戦布告だった。リシュアは正直驚いていた。

 「なっ……。何を言ってる?」

 驚きなのか、心中を言い当てられた恥ずかしさからか、リシュアは顔を赤らめて口ごもった。

 「中尉さんもフィルアニカさんが好きなんだろ? だったら俺と中尉さんは対等だ。正々堂々勝負してフィルアニカさんの気持ちを掴めばいいだろう?」

 クラウスは澄んだ黒い瞳で真っ直ぐに見つめてくる。リシュアも負けずにその目を見返した。

 「……いいだろう」

 そう短く答えはしたものの、リシュアは大きな不安を感じていた。最近の司祭の気持ちはクラウスに移りつつあるように思える。クラウスと司祭は一緒に居る時間も長い。司祭は相変わらず過保護すぎるほどにクラウスにかかりっきりだ。一方リシュアは会議や警備に時間を割かれて顔を合わせることもままならない。更に、以前抱き寄せようとして拒まれたことがいまだに衝撃で、あれ以来拒絶されるのが怖くて近づけずにいるのだ。

 「だが、そんなことにうつつを抜かしていないで、早く記憶を戻すように努力するんだな」

 言い捨てて、リシュアはクラウスの部屋を後にした。

 

 

 久しぶりにリシュアは司祭達と夕食を共にした。

 イアラが林で集めてきた茸とチキンのシチューはとても美味しく、たくさん焼いたパン共々子供たちのお腹にすっかり収まってしまった。

 デザートに林檎を食べながら、クラウスが子供たちに歌を聞かせはじめた。それはリシュアが初めて聞く歌で、どこか異国の旋律をしていた。しかし子供たちはすっかりその歌を覚えてしまっているようで、クラウスに倣って一緒に歌い始めた。

 旅の途中で故郷を思う歌。それは内乱で家に帰れない子供達や、記憶をなくしたクラウスの今の状態を反映しているようで、聞く者の心を動かした。

 片付けの手伝いを終えた司祭がテーブルに戻ってきて、その歌に耳を傾けた。そして司祭も一緒に歌いだす。クラウスはそんな司祭を見てにっこりと笑い、頷いた。司祭も嬉しそうに笑顔でクラウスを見つめながら歌っている。

 そんな様子をリシュアは苦々しく見ていたが、ふとクラウスの表情が揺らいでいるのに気がついた。

 眉間を寄せて軽く頭を振った後、見る見る苦悶の表情に変わり、椅子から崩れ落ちた。子供たちの悲鳴が響く。

 司祭が駆け寄ってクラウスを抱き起こす。

 「クラウスさん?! 大丈夫ですか?」

 泣き出しそうな顔の司祭に、苦しそうな表情から笑顔を作ってクラウスは頷く。しかし再びその顔には苦痛の色が浮かび、頭を両手で押さえる。

 「頭が……割れそうだ」

 そうしてそのままクラウスは気を失った。

 

 

 リシュアによってクラウスは部屋へと運ばれた。傍には司祭が付き添っている。クラウスは高熱も出していたので、司祭は冷やしたタオルを絞っては交換し続けている。司祭は心配そうにクラウスの顔を覗き込み、その黒髪を優しく撫でている。

 「司祭様。あとは代わりますからお休みになって下さい」

 リシュアの言葉にも頑なに首を振り、決して離れようとはしない。リシュアは諦めて部屋を出た。あのような司祭の姿を見ているのはもはや苦痛以外の何物でもなかった。

 

 二人きりになった部屋で司祭は必死に看病を続けた。その甲斐あってクラウスは徐々に熱も下がり荒かった呼吸も静かになってきた。司祭は安心したようにクラウスの手をそっと握ってその寝顔を見つめた。

 クラウスが、そっと目を開けた。目の前には心配そうな司祭の顔がある。

 「ああ。やっぱりフィルアニカさんは綺麗だなあ……」

 弱々しく微笑んで、クラウスは司祭の栗色の髪を静かに撫でた。

 「心配致しました。頭痛はいかがですか? ……何か、思い出されましたか?」

 司祭の言葉にクラウスはぼうっと夢見るような表情で呟いた。

 「林の中を歩いていたのを覚えている。そして、俺はあなたを見つけた。……とても美しくて、俺は……」

 クラウスはじっと司祭の菫色の瞳を覗き込んだ。司祭もその黒い瞳を見つめ返した。ゆっくりと、どちらからともなくお互いの顔が近づき、唇が触れ合うその直前に、クラウスの動きが止まった。

 「う……」

 クラウスは再び苦しげな表情になる。

 「クラウスさん?!」

 司祭はそのままクラウスの体を抱き締め、その名を必死に呼んだ。

 

 司祭の声を聞きつけて、リシュアが飛び込んできた。部屋は出たものの、なんとなく心配で廊下で待機していたのだ。

 そのリシュアの視界に飛び込んできたのは、クラウスをしっかりと抱き締めている司祭の姿だった。一瞬衝撃は受けたものの、状況を察してリシュアはすぐに駆け寄ってクラウスの顔を覗き込んだ。

 「クラウス! おい、大丈夫か?」

 司祭から奪い取るようにクラウスの体を引き寄せて、リシュアはクラウスに声をかけた。

 クラウスは暫く苦しそうに頭を抱えて身悶えしていたが、そのうちにねじが切れたようにぱったりと静かになった。

 その後、ゆっくりとその黒い瞳を開いて司祭とリシュアを交互に見比べた。

 「……だい、じょうぶだ」

 しかしその顔色は明らかに蒼ざめていた。

 「何か思い出したのか?」

 クラウスは、しばらくじっと考え込んでいたが、ゆっくりと頷いた。そうして司祭の頬にそっと手を当てて優しく言い聞かせるように告げた。

 「すまない、フィルアニカさん。ちょっと中尉さんと話したいことがあるんだ。少しだけ2人きりにしてくれるかな」

 その言葉に不満げに小首を傾げた司祭だったが、真剣なクラウスの表情に押されて渋々頷き、振り返りながらも部屋を後にした。

 

 司祭が出て行ったのを確認して、クラウスはふう、と大きく息を吐いた。

 「一体何を思い出したんだ? 司祭様には言えないことなのか?」

 厳しい目で見下ろすリシュアに向き合うようにクラウスはベッドの上で体を起こした。

 「言えないよ。……俺はあの夜、フィルアニカさんに襲われたんだな?」

 いきなり核心を突かれて、リシュアの表情は固くなった。

 「……何を思い出したんだ?」

 リシュアは容赦なく睨みつける。

 「俺はあの夜、林の中を歩いていた。すると、白い霧と、美しい歌声が流れてきたんだ」

 そう話し出したクラウスは夢見るような表情をしていた。

 「俺はその歌声にすっかり心を奪われた。引き寄せられるように声のする方に歩いていったら……あの人が立っていたんだ」

 リシュアは警戒しながらその話を聞いていた。余りにも詳細まで記憶しすぎている。司祭の秘密を知られた以上は何らかの手を打たねばならないだろう。最悪この男の口を塞ぐことも考えなければ。そう考えながらリシュアは話を続けるクラウスを見つめた。

 「霧の中に、金色の瞳が光っていた。その瞳に見つめられるともう体の自由が利かなくて……」

 そう話すクラウスは、それでもどこか嬉しそうな表情をしているようにも見えた。

 「俺は動けなかった。あの瞳。でもそれ以上に間近で見たあの人の美しさに、動けなかったんだ。俺は天女が舞い降りてきたのかと思ったよ」

 

 クラウスはうっとりとした表情でそこまで話すと、ふう、と再び息を吐いた。

 「それでお前はどうするつもりだ? 他に自分のことは思い出さなかったのか?」

 その言葉に、クラウスは表情を固くした。じっとベッドの上の自分の手を見つめ、ふいに顔を上げると、思いつめたように口を開いた。

 「中尉さん。俺、すぐにここを出て行かなくちゃ。俺はここに居ちゃいけないんだ」

 「どういう意味だ? 思い出したことを全部話すんだ」

 もどかしそうにリシュアはきつく詰め寄った。

 クラウスは暫く考え込んだ後、ゆっくりと頷いて枕の下から例の美しい装飾の銃を取り出した。

 「中尉さんの言うとおり、これは俺がここに持ち込んだ。……俺は、フィルアニカさんを殺すためにここに来たんだよ」

 

 リシュアは息を呑んだ。予想の範囲内だったとはいえ、実際に聞くには余りに物騒な話だ。

 「何故だ。何故司祭様を狙う?」

 隣室の司祭に聞こえないように声を抑えながらも、リシュアはクラウスの両肩を掴んで大きく揺すった。クラウスは悲しげに目を伏せる。

 「ごめん。それがまだ思い出せないんだ。誰かに命令されたのは覚えている。この銃で天女を殺せと。そう言われて来たんだ」

 「……天女? 司祭様が天女だと?」

 リシュアは眉を寄せた。クラウスは小さく頷く。

 「この銃は天女を殺すことが出来る特別な銃だ。これを渡されて、俺は偽名を使ってここに入り込み、林の中でチャンスを窺った」

 クラウスはリシュアの手に銃を渡す。リシュアはそれを奪うように取り上げ、ポケットに仕舞った。

 「でも、俺は撃てなかった。フィルアニカさんが、あまりにも綺麗で。俺はもうあの時既にあの人に心を奪われていたんだ」

 そう言って、クラウスはリシュアをじっと見上げた。

 「俺はもう決してフィルアニカさんを傷つけるようなことはしない。でも、そんな目的を持って侵入してきた以上、もう俺はあの人の傍にはいられない。そんな資格はないんだ」

 ひどく悲しげで、寂しげな表情で吐き出すようにクラウスはそう呟いた。

 

 リシュアはそんなクラウスを少し同情するように見ていたが、彼としてもこの状態を黙って見過ごすわけには行かない。

 「お前はここには居ないはずの人間だ。だから今更公式に罪を問うことはできない。だがその代わりに暫くの間俺の目の届くところで静養して、記憶が戻り次第首謀者や協力者を明かしてもらおう」

 クラウスはしっかりと頷き、リシュアを見上げた。

 「このことはフィルアニカさんには……?」

 リシュアは少し考えて、短くため息をついた。

 「言えるわけないだろう。司祭様はお前を完全に信じきっている。今更命を狙われてたなんて知ったらどんなに傷つかれるか……」

 その言葉にクラウスはうなだれる。

 「そう、だよな」

 そして暫く考え込んだ後、弱々しく微笑んでリシュアに告げた。

 「フィルアニカさんには俺から別れを言うよ。何か適当に言い訳を考えてみる。後はまかせてくれないか?」

 リシュアは頷いた。強力なライバルと思われた男の、実にあっけない退場だった。同じく司祭に心を奪われた者同士として、その心情は察して余りある。

 「いいだろう。その代わりここを出る算段は俺が考える。準備が出来次第すぐに出て行ってもらうからそのつもりでな」

 クラウスは小さく頷いた。

 「じゃあ、早いほうがいいね。フィルアニカさんに出て行くことを話すよ。悪いけど今度はあの人と二人きりにしてもらえないか?」

 リシュアは一瞬警戒したが、クラウスの様子を見れば危険がないことはすぐに分かった。

 「じゃあ今お呼びしてくる。あの夜のことは話すなよ」

 「無論だ」

 クラウスは真剣な顔で頷いた。

 

 リシュアに呼ばれて、司祭はひとりクラウスの部屋に戻ってきた。心配そうな表情でベッドのクラウスに駆け寄り、手を握る。

 「大丈夫ですか? 何か思い出しましたか?」

 クラウスは努めて笑顔を作り、頷いた。

 「フィルアニカさん。今まで良くしてくれて本当に有難う。俺は行かなきゃ行けないところがあったんだ。そこから逃げてここに隠れていた。でも戻らなくちゃいけない。だから、ここを出て行くよ」

 司祭は息を飲む。突然の別れを切り出されてかなり衝撃を受けているようだ。

 「そんな、急に? また戻ってきて下さいますよね?」

 縋るように言う司祭をなだめるようにクラウスは司祭の髪を撫でる。

 「……戻って来られるかは分からない。でも俺がいなくても大丈夫だ。あなたは強い人なんだから」

 司祭の目から大粒の涙が落ちる。握った手にぎゅっと力を込めた。

 「そんな……。私はクラウスさんと一緒に居たいです。私はクラウスさんのことを……」

 その言葉を遮って、クラウスはなだめる様に微笑んだ。

 「その先は言っちゃいけないよ、フィルアニカさん。あなたには中尉さんが付いているじゃないか。どうか中尉さんと仲良くやってくれ。それで俺も安心できる」

 そうしてそっとその額に優しくキスをした。司祭はもう言葉もなく泣きじゃくるだけだった。

 「泣かないでフィルアニカさん。あなたに泣かれると俺も辛いよ」

 いつしかクラウスも泣きそうな表情になっていた。しかしそれをぐっと堪えてクラウスは笑顔を作り続けた。

 司祭もそんなクラウスの様子を見て、最後には無理矢理笑顔を作って涙を拭った。

 「分かりました。でもいつかまた会えると信じてもいいでしょうか」

 クラウスはゆっくりと頷いた。

 「ああ。いつか必ず。だからどうか無事で過ごしてくれフィルアニカさん」

 涙で濡れた頬をそっと撫でてクラウスはフィルアニカの顔をじっと見つめた。まるで永遠にその目に焼き付けようとするかのように。

 

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