風が吹く前に 第3部 (13)                       目次 

 一瞬、3人は固まったように動かなかった。その後、いち早く動いたのはアンビカだった。早足で駆け寄ると、リシュアの頬を思い切り叩いた。

 ぱあん、と大きな音が礼拝堂に響き渡る。

 「……っ!!」

 その強烈な1発に、思わず頬を押さえて身を屈めるリシュアと、驚きに目を見開いたままの司祭。

 「司祭様に対して何てことするのよ! あなた、私達の信仰を侮辱するつもり?!」

 射るような目でリシュアを睨みつける。花束を持った手が怒りで震えていた。

 「だからって、いきなり殴るか? 普通!」

 痛みを堪えてようやく反論したリシュアの足を、今度はアンビカのブーツが踏みつけた。

 「痛っ!」

 「言い訳無用よ! 汚らわしい! 早く出て行って!」

 この剣幕にはリシュアも何も言えず、肩を竦めて礼拝堂を後にする。その背中に更にアンビカの声が覆い被さる。

 「ちょっとリシュア! あなたには後で話があるから門の所で待ってなさい!」

 そうして彼の返答も待たずに司祭に向き直った。まだ怒りが収まらないようで、目を閉じ大きく深呼吸をしてから司祭を見つめる。

 「……司祭様。大丈夫ですか? あの男はいつもあのようなことを?」

 単刀直入な質問に、司祭は目を泳がせて俯いた。

 「あの……。アンビカさんは中尉さんのお知り合いですか?」

 答えることができずに質問で返す。今度はアンビカが言葉に詰まる。

 「……ちょっとした、顔見知り、です」

 二人の間にぎこちない空気が漂う。

 沈黙に耐え切れなくなった頃に、アンビカが思い出したようにルニスの花束を差し出した。

 「相談を致したいと思い参りましたのですが……」

 切り出したものの、言いにくそうなアンビカの様子に司祭は僅かに首を傾けた。

 「分かりました。ここは寒いですから、こちらに」

 花束を受け取り、控え室へとアンビカを促す。

 

 控え室は暖かく、静かだ。司祭は紅茶を煎れてソファに座ったアンビカに勧めた。

 「有難うございます」

 深くお辞儀をして、アンビカはカップを口に運ぶ。それを見て司祭もようやく微笑んで紅茶を口にした。

 「それで、ご相談とは?」

 聞かれて、アンビカは迷った。相談とは自分の縁談のことだ。一方で縁談がありながら、リシュアに対してもまだ想いが残っている。自分はどうすべきなのか、誰かに相談したかったのだ。

 しかしアンビカの脳裏には先ほどの2人の抱擁が焼きついている。このような話を司祭にしても良いものだろうか。

 沈黙を続けるアンビカを、司祭は優しい微笑みで見守っている。

 「ここには誰も居ません。どうぞお気を楽になさってお話ください」

 当事者の司祭がいるではないか、とアンビカは思ったが、このまま黙っているわけにも行かない。心を決めて彼女は静かに切り出した。

 「……今、私に縁談が来ております。お相手の方とも会いましたが悪い方ではありません」

 司祭の顔が綻ぶ。

 「ああ、それはおめでとうございます。こういうことはご縁ですからね。大事になさって下さい」

 アンビカは少し恨めしそうに司祭を見上げた。

 「そうですね……」

 そうして再び彼女は黙り込んで俯いた。司祭は困ったようにその顔を覗き込む。

 「もしかして、他にお好きな方が?」

 どきりとしてアンビカが顔を上げる。目が合った司祭の顔は穏やかだ。自分の想う相手がリシュアだとは気がついていない様子だった。

 アンビカは少しためらった後、小さく頷いた。

 「でも、結婚には向いていない人です」

 思わず溜息が出る。司祭は心配そうに見つめている。

 「そうですか……。忘れることは難しいと思いますが、アンビカさんの幸せの為にはそういう方は避けられた方がいいでしょうね」

 アンビカの心情はますます複雑になっていく。

 「悪い方でないのなら、そのご縁談を前向きに検討されてはいかがかと思います」

 そう司祭の静かな声が告げる。

 「分かりました。有難うございます」

 嘘だった。アンビカの心は余計に乱れていた。司祭とリシュアの関係が気になって仕方がなかった。しかしそれを今ここで問い詰めることは彼女のプライドが許さない。

 司祭は固いままの表情のアンビカの顔を不思議そうに見つめている。何も知らない様子の司祭にアンビカは軽い苛立ちを覚えた。

 「……司祭様。出過ぎたことかもしれませんが、あまりあのような男を近づけないほうが良いかと思います。もっとご自分の立場をお考え下さい」

 言ってから、しまったと思った。これではただのやっかみではないか。アンビカは自分の態度を恥じた。しかし一度出た言葉を戻すことは出来ない。

 司祭は申し訳なさそうに体を小さくしている。そして深く項垂れたまま小さく頷いた。

 「はい。申し訳ございません。以後充分に気を付けます」

 その態度がますますアンビカの罪悪感を募らせた。アンビカはバッグを掴むと、逃げるように部屋を後にする。

 「それでは失礼致します」

 早足で立ち去るアンビカの背に向かって司祭は再び深くお辞儀をした。

 

 寒い風が吹き抜ける庭の出口、門の手前でリシュアはポケットに手を入れたまま身を屈めて待っていた。もう12月も中旬を過ぎた。流石にコートも着ずに外に立っているのは寒さが堪える季節だ。

 向こうからアンビカが足早に近づいてくる。リシュアは一瞬緊張した表情になる。また先ほどのような平手打ちをお見舞いされるかと一瞬身構えた。

 しかしアンビカはどこか元気がなかった。先ほどの勢いは影を潜めている。

 「用事は済んだのかい?」

 拍子抜けしたリシュアがそう尋ねると、アンビカは無言でじろりと彼を見上げた。

 「前にしっかり釘を刺したはずよね? 司祭様は高貴で神聖なお方よ。あなたのような人間が遊び半分に手を出していいお方じゃないの」

 リシュアは困ったように薄ら笑いを浮かべ、頭を掻いた。

 「それはしっかり覚えてるさ。でもなあ……」

 「何よ。今更言い訳なんか聞きたくないわ」

 アンビカの厳しい声がぴしゃりとリシュアの言葉を遮る。

 さすがにリシュアも眉を寄せ、アンビカの顔を覗き込む。

 「まあ聞けって。俺は遊び半分なんかじゃない。本当に良く考えたんだ。お前は信じないかもしれないけど、俺は真剣だよ。本気で司祭様を守りたいと思ってるし、心から愛してる」

 アンビカは耳を疑った。そして体は勝手に反応し、再びその右手がリシュアの頬を打ち据えていた。

 「恥を知りなさい! あなたなんかに本気の愛情なんてあるわけがないじゃない。そんなものは錯覚よ。そうやってまた司祭様まであなたの犠牲にするつもり?」

 リシュアは赤くなった頬をさすりながら、小さくため息をついた。

 「なあ。お前が信じられないのは良く分かるよ。俺自身信じられなかった。でも、本当なんだ。もう今は他の誰も目に入らない。司祭様のためなら命を投げ出したっていいと思ってる」

 アンビカは体から血の気が引いていくのを感じていた。それが何故なのかは自分でも良く分からない。しかしそれがリシュアの言葉の真実を感じ取ってのことだという事だけは理解できた。

 「……本気、なのね」

 勢いを失ったアンビカは、小さくぽつりと呟いた。

 「ああ。本当に、済まない」

 謝られて、初めてアンビカは自分が悲しげな表情になっていることに気付く。

 悲しいのだろうか。そうかもしれない。かつて許婚であった頃から今まで、彼の自分に対するこのような言葉を聞いたことはなかった。それが悲しかった。悲しいと言うよりも空しいと言ったほうが合っているかもしれない。

 気持ちを落ち着けるために、アンビカが一つ大きな息を吐いた。

 「……あなたの気持ちは分かったわ。でも、それとこれとは話が別よ。あなたと司祭様は身分も立場も違うわ。世の中の誰もあなたたちを認めない。その邪な気持ちは胸の奥に仕舞って、今後は行いを慎みなさい。これは警告よ」

 鋭く言い放ち、再びリシュアを睨みつける。

 その言葉には答えず、リシュアは肩を竦めた。

 「それが言いたくてここで待たせてたのか?」

 その言葉にようやくアンビカは本来の用件を思い出す。

 「違うわよ。あなたに確認したかったの。……凱旋パレードの責任者になったって本当なの?」

 思いがけない質問にリシュアは目を丸くする。

 「何でお前がそんなことまで知ってるんだ?」

 「当たり前よ。パレードの開催には元老院の承認が必要なんだから。父の代わりに会議に出て、資料を見て驚いたわよ」

 そう言って、呆れたような視線をリシュアに向ける。

 「呑気なものね。一方で司祭様に熱を上げておきながら、そのお気持ちを踏みにじるようなパレードの責任者になるなんて」

 その言葉にリシュアは首を傾げた。

 「あんなくだらん行事が司祭様と何か関係あったか?」

 その頭にアンビカの手が飛んでくる。ぽかりと頭を叩かれても、リシュアは不思議そうに見返しているだけだ。

 「あのね。凱旋パレードはクーデターの成功を祝ったものの名残なのよ。司祭様のご両親が亡くなったのも元はと言えばあのクーデターのせいじゃない。今こうして寺院に閉じ込められている事もね。司祭様への愛情を口にしながら皇帝陛下のご一家と貴族の権威を地に貶めた出来事を祝うつもりなの?」

 「……ああ、そういうことか。考えもしなかったな」

 呆気に取られたようなリシュアの様子を見ると、その言葉は本当らしい。

 「あなたって、本当に気遣いとかそういう言葉とは無縁の男よね」

 もはや怒る気力も失せたようにアンビカはため息をついた。

 「でも、もう今から断るわけにもいかないし。司祭様には俺からお話しておくよ。俺だってあんな馬鹿げた行事に好きで関わるわけじゃない。これも仕事なんだよ」

 「仕事、か。便利な言い訳ね。まあ、せいぜいあなたの大事な司祭様に嫌われないようにすることね」

 そう言い捨てると、視線も合わせぬままにアンビカは門をくぐって去っていった。

 

 頭を掻きながら無言でアンビカを見送り、そのまま礼拝堂に戻る。

 礼拝堂にはルニスの花束を手にした司祭が立っていた。

 「何かご迷惑をお掛けしましたでしょうか? ドリアスタ公爵のご令嬢は何と?」

 自分のせいでリシュアが責められたのではと思ったのだろう。酷く心配そうにリシュアを見上げる。

 その肩にそっと手を乗せて、リシュアは微笑んだ。

 「いえ、私個人のことです。どうぞ気になさらないでください」

 それを聞いてようやくほっとしたように司祭は頷き、近くの大きな白い花瓶にルニスを挿し始めた。

 「信者の方は皆ルニスを持ってきますね」

 苦手な甘い香りをなるべく吸い込まないようにしてリシュアは司祭の背中に語りかけた。

 「ええ。ルニスは神の化身とも言われる花です。祈りを捧げたり願い事がある時には必ずこの花を飾るのですよ」

 「願い事……か」

 リシュアは神を信仰しない。願い事は自分で叶えるものだと信じている。神に縋るほどの願いとは一体何なのだろう。

 「司祭様には何か願う事がありますか?」

 何気なくそんな質問が口をついて出た。司祭は何かを要求することがない人だ。何か願いがあるのなら、叶える手助けができれば喜んでくれるのではないか。そんなことをふと思ったのだ。

 司祭はルニスを挿し終えてゆっくりと振り返った。

 「……願い、ですか」

 リシュアの目に映った司祭の反応は彼の予想に反していた。僅かだが表情を硬くし、目線を泳がせている。

 暫くの沈黙があり、やや強張った笑顔を向けて司祭が答えた。

 「天女は月(リュレイ)に住むものと聞きます。いつかそこに行けたなら、とは思います」

 その表情とはそぐわない、少女のような可愛らしい願い事だった。

 「月(リュレイ)に行く、ですか。素敵な夢ですね」

 突飛な願いをいう事が恥ずかしくてあのような態度をしたのだろうと思い、リシュアは微笑んで司祭を見つめた。そういえばいつかもそんな話をしていた気がする。

 「いつか連れて行きますよ。それが司祭様の願いなら」

 「……本当に?」

 司祭は驚いたようにリシュアを見上げる。無理なことは分かっていた。司祭は寺院から出ることはできないし、この国の宇宙へ行く技術もまだ開発中だ。

 それでもリシュアは確信に満ちた笑みを浮かべている。

 「あなたがそう願うなら、私は叶えてみせます。すぐには無理でも。いつか必ず」

 司祭は嬉しそうに頷いた。夢で終わるかもしれないと分かってはいても、その言葉だけで充分だった。

 リシュアは司祭に歩み寄り、そっとその肩を抱こうと手を差し伸べる。

 しかし司祭は困った顔で俯いてしまった。

 「……どうかしましたか?」

 司祭は俯いたまま小さな声で告げる。

 「先ほどアンビカさんからご忠告を頂きました。私のような立場の人間は軽々しい行動を取るものではない、と」

 続けて、すみません、と頭を下げられてリシュアは困惑した。そして同時に心の中で余計なことを言った元許婚を毒づいた。

 「そんな言葉、気にすることはありませんよ。あなたはあなただ。司祭としての職務は立派に果たされています。個人的に何をしようと他人がとやかくいう権利はありません」

 しかし司祭は固い表情のままだ。

 「ですが、司祭であるこの身は私一人のものではありません。信者の方の信頼を損ねるようなことは避けなければいけないのかもしれません」

 リシュアは表情を曇らせた。折角明るくなってきた司祭の表情がこうしてまた暗くなるのは見るに忍びない。伸ばしたままの手で司祭の両肩をそっと掴み、その顔を覗き込んだ。

 「司祭様。人を幸せにするにはまず自分が幸せでなければなりません。あなたはもっとご自分の幸せを考えて行動すべきです。外野が何と言おうと、私はあなたを諦めない。あなたを幸せにしたいと思っています。ただ、私といることがあなたにとって迷惑ならば……」

 司祭は驚いたように顔を上げた。

 「迷惑だなどということはありません。中尉さんのお気持ちは本当に有難いと思っております。でも……」

 自分の肩を掴む手にそっと触れる。迷いながらも司祭は不安に満ちた目でリシュアを見つめている。その目には光るものがあった。

 リシュアは微笑んで司祭が浮かべた涙をそっと拭った。

 「今日の司祭様は泣き虫ですね」

 その言葉に堰を切ったように司祭の目から大粒の涙が零れ落ちた。初めて自分個人の幸せを考えてくれた人に出会った喜びの涙でもあり、それが叶わない事であるという悲しみの涙でもあった。

 「ねえ、司祭様?」

 リシュアはなだめる様に司祭を抱き締めて優しく耳元で囁く。

 「私はルナスの教義は良く分かりません。でも、人を幸せに導くのが神様や司祭様のお仕事なのではないですか?」

 司祭は抱き締められた腕の中で小さく頷いた。

 「だったら、あなたも例外じゃないはずです。ルナスの教えに従って、あなたも幸せに……いえ、あなたこそが皆の先頭に立って幸せになるべきです。違いますか?」

 司祭は答えなかった。しかしそれが答えだった。リシュアの言葉に反論することができない。ならば自分はどうすべきなのか。司祭は困惑したままリシュアのぬくもりを感じていた。

 「あなたに答えが出ないのならば、私が代わりに考えます。どうか悩まないで下さい。私のためにいつも幸せで、笑顔で居てください」

 司祭は顔を上げた。涙に濡れてはいたが、その顔は微笑んでいた。

 「難しいことを簡単に仰るのですね」

 「何事もシンプルなのが好きなんですよ」

 リシュアも微笑みを返してその髪を撫でた。

 「私の願いは、それだけですよ。さあ、ここは冷えます。部屋に戻りましょう」

 そう付け加えて、リシュアは司祭の手を取った。

 「願い事にはルニスを捧げなければなりませんよ」

 司祭はそう言ってくすりと笑った。

 「ルニスの花は苦手です」

 リシュアは振り向いて笑った。

 そうして二人の姿は廊下の向こうに消えていった。

 

 

 

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