風が吹く前に 第3部 (15)                       目次 

 
 ここ数日、中央警察機構ビルのとある一室ではもの珍しい光景が見られていた。
 一日中デスクに噛り付いて、脇目も振らずに仕事をし続けるカスロサ=リシュアの姿だ。
 その様子は彼を知る署内のすべての人間にとってはあまりにも奇怪な姿に映ったようだ。
 署内メール便の配達人をしている南部出身の若者がその様子を見て「神よ、お守りください」と、胸にさげたお守りの石に祈りを捧げたほどだ。
 しかし当人にすればこの行為は全てラムズ祭を含む年末年始に寺院に入り浸るため。つまりは司祭と一緒に過ごす時間を作るためという非常に個人的且つ短絡的な理由からでしかない。
 それを思えばこの姿もさして驚くべきものではないのだ。
 
 しかしその理由を知る者は誰もいない。
 上機嫌に灰皿を洗う秘書、ルイズ=ミレイもその一人だ。
 普段は汚れと匂いが手につくのを嫌い、吸い殻は捨てるものの灰皿は一度として洗ったことがない。そんな彼女がご丁寧に洗い終えた灰皿をおろしたての布巾で磨き上げている。
 「今日も精が出ますね中尉。私はちゃんと分かっていましたよ、中尉はやればできる人だって」
 リシュアはそんな世辞にも表情を変えることなく、さらりと言い返す。
 「ミレイ君、俺はやらなくたってできる男なんだがね」
 「ええ、知ってますとも、知ってますとも」
 普段なら眉間に皺を寄せて「だったらやればさらにできるのでしょうね。さあさあ、いいから手を動かしてください」と小言を言うところだが、今日は恐ろしい程の従順ぶりだ。
 「君は何か勘違いしているようだが……」
 そこまで言いかけてやめる。
 どうせなら年末の休みを取るまではこのまま上機嫌でいてもらった方が何かと便利だろう。
 咥えていた煙草の灰が落ちそうになると、すかさずミレイが洗いたての灰皿を差し出した。リシュアの口元にも思わず苦笑が浮かぶ。煙草の灰を落として大きく伸びをすると、再び退屈で難解な書類との格闘を再開させた。
 「でも、折角煙草を止めたと思ったのにまたヘビースモーカーに戻っちゃいましたね」
 ミレイは残念そうな表情を隠さずに換気扇のパワーを最大に上げた。髪に煙草の匂いが付くのが彼女は嫌いだったし、壁紙や白いブラインドがヤニで黄色く染め上げられるのも憂鬱だ。それと、ほんの少しだけ上司の健康も気になった。飽くまでほんの少し、だが。
 
 「仕事に集中するにはどうしてもコレがないとなあ。でも相当軽いのに変えたんだぞ。匂いが残っちゃまずいからな」
 するとミレイは目を丸くし、少し驚いたような嬉しいような表情を浮かべる。リシュアが自分の髪につく匂いに気配りをすることなど今まで一度もなかったからだ。
 しかしそんなミレイをリシュアは不思議そうに見る。煙草が嫌いな司祭様に会う時に自分が煙草臭いのはまずいと思って変えたのだが、彼女は何故嬉しそうにしているのだろう。
 だが彼にとってそんなことは全くどうでもよかった。
 半分吸い終わった煙草をもみ消し、再び仕事に取り掛かる。
 
 『国の土地と州の土地がまぜこぜになった部分に建てられた廃墟の周りの草刈り費用はどこがいくら持つのか』の算定。『駅に棲みついたハトのフンが、撮影中の人気モデルの髪に落ちた訴訟が取り下げになった事に対するファンからの膨大な抗議の署名』への対処。『胡散臭い不動産会社から月(リュレイ)の土地を高額で買ったという成金たちが "20年経っても月へ行く技術ができない" ことへの抗議デモを何故か陸軍に対して執拗に続けている事』への対応策。
 彼に回される書類の山。その中身を見ればほとんどが無意味で下らなく、誰も得をしないようなものだった。
 つまりは実際のところ、例え滞ってもさして問題がない仕事という事だ。
 
 いつもはサボってばかりいる上司に腹を立てたり呆れたりしているミレイだが、こうしていざ真面目に取り組んでいる姿を見るとそれはそれで気の毒な気になってくる。
 問題行動の多い彼ではあるが、数年前までは前線で英雄視されていたこともあった優秀な兵士なのだ。意味のないデスクワークに縛られ飼い殺しにされる事が適正な処遇であったのか、と彼女はほんの少し憂鬱な気分になった。飽くまでもほんの少し、だが。
 時計に目をやると、もう終業時刻の6時をとうに過ぎている。
 ミレイは先日自分のために奮発して買っておいた最高級のコーヒー豆の袋に鋏を入れる。
 そうして、人並みに仕事をするようになった上司へのご褒美のために鼻歌混じりでお湯を沸かし始めるのだった。
 
 
 寺院へと繋がる橋の手前に一台の車が静かに停められる。
 橋の中央に設けられた検問所の若い警備員からもその様子は良く見える。参拝者の車など珍しくもない。しかし彼は引き出しから小型の双眼鏡を急いで取り出し、その車を観察しはじめた。
 品のあるパールホワイトに輝くボディは、丸みを帯びた流線型をしている。車好きなら誰もが憧れる名車の限定モデルだ。
 「あれはたしか先月出たばかりのWRCY20じゃないか……」
 ため息交じりで呟く声には羨望と嫉妬が僅かに込められている。彼の年俸では300年働いても買えない代物なのだから、彼の心境も少しは理解できるというものだ。
 若い警備員は軽く舌打ちして、双眼鏡を机の上に放った。
 しかし数分後、彼は再び双眼鏡を手にしようとする。車から降りて真っ直ぐこちらへ歩いてくる人物が、あまりにもその車とそぐわなかったからだ。
 その人物と、車の持ち主を良く見ようとした若者の手は双眼鏡には届かなかった。
 
 「レディをそんな呆けた顔で見つめるなんて礼儀知らずな男ね!」
 検問所に着いた途端に睨みつけられ厳しい口調で叱咤されて、彼は伸ばした手ごと固まってしまったためだ。
 怒りを具現化したような赤い巻き毛の女性は紛れもなくドリアスタ公爵家の女傑、アンビカ嬢だ。彼女のきつい言葉にどう答えようかと必死で考えながらも、彼の頭の中は一つの疑問で埋め尽くされていた。新都心限定モデルの新車に何故旧市街の、それも貴族の人間が乗っているのだろう。
 「で、ですが、今の車は公爵様のもので……?」
 思わず口にしてから彼は死ぬほど後悔した。旧市街の貴族の女性の中で最も気難しいと言われる令嬢が、ぴくりと片眉を上げ凍てつくような怒りを込めた目で再び自分を睨みつけたからだ。
 
 「不躾にも程があるわね。いいこと? 詮索好きは命を縮めるって言葉をその小さな脳によく刻み込んでおきなさい」
 それはまるで凶悪な魔女に呪いの呪文を浴びせられたかのような気分にさせる声そして表情だった。
 哀れな警備員は「ひっ」とだけ声を上げ、腰を抜かすように椅子にへたり込む。その間にアンビカは足早に寺院へと向かって歩きだしてしまった。しかし彼にはもう「礼拝者名簿に記名を」などと呼び止めるような勇気は残っていなかった。
 
 「車? 車ですって? ……何が車よ。くだらない! どうして男って車なんかで大騒ぎするのかしら」
 そう言いながらも彼女が苛ついているのは別に車のせいなどではない。むしろそんなことはどうでも良かった。
 更に言えば、彼女は怒っているのではなく極度に緊張しているのだ。
 今日自分がここに来たことは、警備員達に極力印象付けたくはなかった。目的を考えれば至極当たり前のことだ。しかしまさか自分自身ではなく、橋の向こうに待たせた車が目に付いてしまうとは予想していなかった。
 
 「ああもう。なんでこんな日に馬車が壊れるのよ!」
 父から託された大事な伝言を司祭に伝えるため寺院へと出かけようとしていたのだが、出がけに屋敷の馬車の車軸が折れてしまった。更に他の車は出払っており、用心のためにもタクシーを使うことは避けたかった。仕方なく愛馬で出かけるために着替えているところに現れたのがあの車だ。
 乗っていたのはルドラウト=キルフ。新都心と旧市街に多くの支店を持つアウシュ銀行の若き相談役。そして現在進行中の彼女の縁談の相手でもある。
 
 「おや、こんな寒空に遠乗りですか?」
 キルフはいつもと変わらぬ穏やかな笑顔で凛々しい乗馬服姿のアンビカを見つめた。
 その目は愛情と称賛に満ちていた。彼女はその笑顔を見て、ようやく彼との約束を思い出した。
 「……いっけない!! そうよね。今日は一緒にランチに行くって……ごめんなさい!!」
 突然重要な仕事を父に頼まれたからとはいえ、完全に彼との約束が頭から抜け落ちていた。弁解の余地もなく彼女の失態だ。
 「ちょっと急に用事が入ってしまって……。でもほら、馬車も車も都合が悪くてね……」
 服装に似合わず急にしおらしくうな垂れる彼女を見て、キルフは思わず顔を綻ばせる。
 「では私の車に乗って行けば万事解決ということですね。ただ……」
 くすりと笑ってアンビカの服装に再び注視する。アンビカは一瞬不思議そうな顔をした後、自分が乗馬服姿だったことに気づく。
 「あ、そ、そうよね。この格好で新都心のランチは無理……だわね」
 「ええ、非常に残念ではありますがね。その姿でのデートはまた今度、ということで」
 慌てて着替えに戻るアンビカを少し名残惜しそうに見送るキルフ。
 そんな彼をアンビカは強く信頼するようになっていた。恐らく彼は決して自分を裏切ることはないだろう。これといった理由は思いつかないが、何故かそう確信していた。
 
 『だからって、こんな時に送ってもらうのは間違いだったわ。なんて馬鹿な私!』
 アンビカは今更取り返しのつかない選択をした自分を心の中で毒づいた。
 寺院への門をくぐる前に、ちらりと後ろを振り返る。
 白い車は忠実な大型犬のようにアンビカの帰りを待っている。彼女の顔に思わず笑みが浮かぶ。
 煩く付きまとうでもなく、追えば逃げるわけでもなく。キルフはいつも適度な距離を保って彼女を見守っている。
 今まで彼女の周りを取り巻いていた男性とはまるで違っていた。結婚という気持ちにはまだ至らないが、少なくとも良い友人にはなれそうだ。
 そんなことを考えていると、先程の苛立ちも嘘のように消えていく。キルフという男は、その柔和な外見に反して底知れない謎と余裕を感じさせるのだ。
 大きく息をひとつ吐き、アンビカは落ち着いた足取りで寺院の門をくぐって行った。
 
 
 幸い寺院にはアンビカ以外の参拝者の姿はない。がらんとした礼拝所には司祭の姿があるだけだった。
 司祭は祭壇の前で跪き、熱心に祈りを捧げている。
 白いローブと栗色の髪が良く磨かれた石畳の上に広がり、その周囲を薄明るい日差しが浮かび上がらせている。
 日差しはステンドグラスの色を滲ませてうっすらと色とりどりに輝き、その情景は1枚の神聖な絵画さながらに神々しい。
 アンビカはしばらく声をかけるのも忘れてその姿を見つめていた。
 
 ふいに司祭がその顔を上げ、こちらを向いた。それでもアンビカは動くことができず、にっこりと微笑む司祭に魅入られていた。
 「お祈りをされますか? それとも何か願い事が?」
 アンビカがルニスの花を持たずに立っている姿に、司祭は少し戸惑いを見せているようだ。
 経済的に余裕のない一般の市民とは違い、彼女がルニスの花を持たずに個人的に寺院を訪れることは今までになかったからだ。
 アンビカは動揺を悟られないように、小声で静かに司祭に告げる。
 「大事なお話があって参りました。誰にも聞かれずに話せる場所はございますか?」
 司祭は不思議そうに小首を傾げる。しかしすぐに親しみを込めた微笑みを浮かべて頷いた。
 「私の自室で宜しければ」
 つられてアンビカもようやく笑みを浮かべ、小さく頷いた。
 「こちらへ」
 長い廊下や頑強な扉を抜けて2人は司祭の部屋の前へと辿り着く。元老院の長である父や、軍の警備担当でさえ踏み入れることのできないプライベートな空間だ。
 アンビカは改めて緊張に息を詰めた。が、司祭は変わらず柔らかな笑みを浮かべたまま、家族や友人に対するような自然さでその扉を開け、アンビカを招き入れた。
 
 部屋は意外なほどに簡素だった。床や壁はオフホワイトとローズブラウンのモノトーンで、家具も上品ではあるがやけにシンプルだ。
 聖職者としてならば確かに違和感はないが、次期皇帝の住む部屋とはとても思えない。美術品などの装飾品もなく、飾られているのは子供が描いたような絵と一枚の家族写真だけ。
 ゲリュー皇家の血を引く唯一の貴人がこのような質素な暮らしを強いられていると思うとアンビカは怒りさえ感じた。
 しかし、そんな風に感じたことを司祭に知られれば更に傷つけることになるだろう。彼女は平静を装って、司祭に勧められるままにソファに腰を下ろした。
 
 その瞬間、アンビカの表情が強張った。ソファから微かに漂う香りに気づいたのだ。
 彼女にはとても馴染みのある香り。それはリシュアが昔から愛用している香水の香りだった。
 本来立ち入りを禁じられているはずのこの部屋に、司祭のプライベートな空間にまで出入りしているというのだろうか。
 「……どうかなさいましたか?」
 その声にアンビカは我に返る。こんなことを気にしている場合ではない。
 アンビカはじっと膝の上の自分の手を見つめ、心の乱れを落ち着かせる。
 「司祭様。……いいえ、フィルアニカ様。今日は父に代わって大切なお話をしに参りました」
 アンビカは静かに、そしてゆっくりと目の前の美しい皇子に向かって話し始めた。

 

 

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