風が吹く前に 第3部 (3)                       目次 

 

 その日の夕食は久しぶりに父のドリアスタ公爵も帰宅し、一緒に食卓を囲むことになった。いつもは夕食会や会議でお互いにすれ違うことが多いので、親子揃っての食事は随分と久しぶりのことだ。
 一人での夕食は味気ないものであるし、厳しくはあるがたった一人の家族である父を愛してもいた。だからこうして父と二人でとる食事は本来嬉しいもののはずなのだ。
 
 しかしアンビカの心は重かった。原因はもちろん今朝の出来事にある。朝帰りを見られただけでも気まずいというのに、相手がリシュアでしかも彼が軍人になっていることも同時に知られてしまったのだ。
 これが父の逆鱗に触れるであろうことは容易く予想がついた。夕食の席でそれを叱咤されるかと思うと当然アンビカの心は重くなった。
 
 はぁ、とため息を吐き夕食を断る言い訳を頭の中で考えていると、ドアの外からマニの声がした。
 「もうすぐお時間ですよ。旦那様も間もなくおいでになります。遅れないようになさって下さいね」
 少しの間を置いてから、アンビカは小さくマニに返した。
 「……今行くわ」
 どうせ誤魔化しがきかないなら、早めに事を済ませてしまった方が気が楽だ。叱られるならばそれも仕方のないことだろう。それだけの事をしてしまった報いなのだから。
 アンビカは重い足をダイニングに向けた。
 
 
 普段使っているダイニングはそれ程広くないが、それでも10名は座れる長いテーブルが据えられている。そのテーブルの奥に燭台とフルーツが飾られ、部屋の中には心地よい音楽が流れている。アンビカが一人で食卓に着くことも多いこの部屋が寂しく感じられないためにと執事のルーティスが常に心を砕いている。
 
 アンビカは先に席に着いて父を待つことになった。暖かい部屋と優しい音楽にほっとして、肩の力が抜ける。と、その時。ダイニングのドアが静かに開いた。
 俄かにアンビカの顔に緊張が走る。開いたドアから父のドリアスタ公爵が姿を現した。くっきりとした目鼻立ちと鋭い眼光は鷹のそれと例えられることが多い。馬術や剣術で鍛えられた体躯は年齢を感じさせることがなく、全身から異様な威圧感を放っている。
 アンビカは席を立って父を迎える。父は目線を合わせることなくその後ろを通って奥の席に着いた。父の着席を待って、アンビカも腰を下ろす。
 「お帰りなさいませお父様。お疲れ様でした」
 アンビカの挨拶にも父は黙って頷くだけだった。アンビカも父と目を合わせることができずに目の前に用意されたナイフやフォークの輝きをじっと見つめるしかなかった。
 
 そうして無言のまま夕食は始まった。とはいっても、普段から会話の多い親子ではない。仲が悪い訳ではないが、寡黙な父とは時折交わすのも仕事の話がほとんどだった。
 そういう訳なので、今日のような静かな夕食も特別ではない。それでもアンビカにはこの沈黙が耐えがたく感じられた。叱るなら早く叱ってくれればいいのに、とスープの味も感じられないまま父の動きを探るように目の端で捉えていた。
 
 そんな空気の中で夕食がほとんど済み、最後にデザートが運ばれてきた。アンビカの大好きな木苺のムースだ。料理長が気を利かせてくれたのだろう。しかしアンビカの心は相変わらず重かった。
 じっとデザートの皿を見つめたままスプーンに手を伸ばさずにいると、ふいに公爵が口を開いた。
 「例の夕食会で体調を崩したそうだな」
 はっとしてアンビカは顔を上げた。まさかそちらが話題になるとは思っていなかった。上手く誤魔化したつもりだったが、それさえも父は察していたのだろうか。アンビカは体を堅くし、背に汗が流れるのを感じていた。
 「え、ええ。お父様の代わりをしっかりと努められず申し訳ありませんでした」
 俯くように頭を下げる。こうなれば全て叱られてすっきりしてしまえばいいと半ばやけになった時だ。
 「すまないな。最近お前には無理ばかりさせたようだ」
 意外な父の言葉にアンビカは驚いたように顔を上げた。その父の顔には厳しさはなく、労わるような優しい眼差しが自分に向けられていた。
 「お父様……」
 アンビカは意外な父の姿に言葉を失い、ただ見返すことしかできなかった。その父も穏やかな深緑色の瞳で娘を見つめていた。
 「明日の昼食会は欠席の知らせを出しておいた。一日のんびりと羽根を伸ばすなり休むなりするといい」
 そう言うと、手をつけていない自分のデザートの皿をアンビカの前に運ばせた。
 「お前の好物だろう。食べなさい。私は明日の会議の資料を纏めねばならないから先に失礼するよ」
 そう言い置いて、来た時のように静かに部屋を後にした。
 一人残されたアンビカはじっと2つ並んだデザートの皿を見つめ、スプーンを取り上げるとムースを口に運んだ。同時にぽろりと涙が落ちる。
 父に嘘をついたまま、逆にあのように気遣われてしまったことで、罪悪感が募ったということもあるし、素直に父の優しさが嬉しかったのもある。自分に失望したような気分にもなった。
色々な感情が交じり合う頭の中と同じように、涙の味の混じったデザートは辛いような苦いような気がして、アンビカはひとり唇を噛んだ。
 
 
 
翌朝から昼過ぎまで、アンビカは浮かない気分のまま過ごした。父が折角くれた休日ではあるが、これまでの経緯を考えると素直に羽根を伸ばしに、という気にはなれないのだった。
薄暗いリビングでソファにもたれながら音楽を聴いていると、マニがお茶を持って入ってきた。
「お嬢様。折角なんですからお出掛けになったらいかがですか。今日は良いお天気ですよ」
うーん、とアンビカは唸るように答えてカップを口につけたままぼんやりと視線を宙に彷徨わせた。マニは苦笑して大げさにため息をついて見せる。
「お嬢様。旦那様のお気持ちを察してあげてくださいまし。お言葉には出されませんが、最近のお嬢様の様子をとても心配なさっているのですよ。ここはお言葉に甘えてお買い物にでも出られてくださいな」
黒く大きな瞳は優しくアンビカを見つめている。マニにそうやって見つめられると、心がひどく落ち着いてくるのだ。アンビカはようやく僅かに笑みを漏らした。
「そうね。……わかったわ。出かけるから支度して」
 
 
昼下がりの旧市街の路地は買い物の主婦や駆け回って遊ぶ子供達で賑わっていた。そんな人の活気がアンビカの心をほぐしていく。やはり出てきてよかった。そんなことを考えながら歩いていると、次第に足取りも軽くなってきた。
街角の雑貨屋を覗くと年末のラムザ祭の装飾品が並んでいる。木彫りやフェルトで作った昔ながらのものや、電飾のついた最新の流行のものまで揃って店先を賑わしていた。
 
ラムザ祭とはルナス正教の祭りの一つだ。花や動物の形の飾りで家を飾り付け、ご馳走を作って年末年始を祝う。
現在、ルナス帝国ではクーデター後に新しく国教となったジュルジール神教が主流である。そのような訳で、新都心ではジュルジール神教の年末の祭りであるインイッサ祭の方が多く祝われている。しかしルナス正教の信者の多い旧市街では、相変わらずラムザ祭を祝う人々の方が多い。
「もう今年もあと2ヶ月ね」
ラムザ祭では親しい人達とプレゼントを交換しあう風習がある。そろそろマニや父親、そして馬術での友人などへのプレゼントを探さなければ、とあちこちの店を見て回った。
 
いくつか気に入ったプレゼントを予約して最後の店を出た頃には、丁度日も暮れ始めていた。ふと、アンビカは古びた建物の前で足を止めた。
「……あら、この映画ここでもやっていたのね」
その古びた建物は小さな場末の映画館だった。旧市街で映画を見るのは、家にテレビのない貧しい家の者であることが多い。チケットも安く、その分上映されるものは古いものや知名度の低く人気のないものばかりだ。そんなこともあって普段アンビカは危険を冒して新市街まで行っては大きな映画館に足を運んでいたのだ。
その日その映画館で上映していたのは、あまり有名とは言えない監督の低予算の映画だった。アンビカは実はなんとなくその映画が気になっており、いつか見に行きたいと思っていた。しかしそうこうしているうちに新都心での上映期間を過ぎてしまったのだった。
時間を見ると丁度上映が始まる時間だ。アンビカは誘われるように建物の中に姿を消した。
 
 
薄暗い劇場の中に人影はまばらだった。おかげで音や人影に悩まされずに鑑賞することができた。普段の旧市街での映画館のマナーは最悪だ。アンビカはこの映画の人気のなさに複雑な気持ちで感謝した。
肝心の映画は、ひとことで言えば怪奇映画。呪いで魚に姿を変えられた修道女が海の中の世界で醜い大きな魚に求婚される話だ。蒼ざめた色合いの画面にギクシャクと動くクレイアニメが気味悪さを引き立てている。
それでも、アンビカがこの監督の作品を好むにはそれだけで済まない訳がある。怪奇映画の形をとりながらも、実は醜い生き物達の純粋な心の交流を描いている。とても悲しく美しい物語なのだ。
「こういう映画が流行らないのは惜しいわね」
小さく呟きながら映画館を後にする。出口のところで手袋とマフラーを身につけようと思い、気付いた。マフラーが、ない。
「やだ。忘れてきちゃった」
窓口の係員に声をかけ、慌てて劇場内に戻る。自分が座っていた席を探すが見つからない。
「途中で落としたのかしら」
電気がついてもまだ薄暗い通路を目を凝らして探しながら出口に向かう。結局ホールまで出てもマフラーは見つからなかった。
買ったものならまだ諦めもつくが、あのマフラーはマニが手編みで作ってくれたお気に入りのものだ。それにこの寒空にマフラーなしで帰るのも少々辛い。
「困ったわね……」
途方に暮れていると、後ろから声を掛けられた。
「これ、落としませんでしたか?」
見れば探していたマフラーだ。思わず掴んでそのまま振り向く。
「ああ、有難う。探していたところ……」
声の主を見上げると、そこにはオリーブ色の瞳をした青年がにこにこと笑顔を湛えて立っていた。例のホテルで出会った青年だった。
「……あなた? どうしてここに……」
呆然と見つめるアンビカに、穏やかな微笑みを返して青年は答えた。
「言ったでしょう? 縁があればまた会えるって」
 
 
 
近くのカフェに移動して、アンビカは改めてマフラーの礼を言った。
「ありがとう。これ、大事なマフラーなのよ。助かったわ」
青年はカフェオレを飲みながらにこにこと笑って首を振った。
「いえいえ。学生の頃映画館でバイトをしてましたからね。落し物には目が利くんですよ」
一方のアンビカはホットチョコレートを飲んでいた。冷えた体に染み入るようだ。
「それにしても、本当にまた会えるなんて。しかもこんな短期間のうちによ?」
アンビカは苦笑していた。驚くのを通り越して気味が悪いくらいだ。
「僕は会えると思ってましたよ。あの映画はあなたの好きそうな作品ですからね。僕も好きで、観に行ったのは今日で3回目です」
アンビカは目を丸くして一瞬沈黙した後に一言漏らした。
「……随分暇なのね」
青年は楽しそうに笑って、そうですね、と答えた。一体何者なのだろう、とアンビカはますます気になり、じっと青年を見つめた。
「また会えるかしら」
青年は優しい眼差しでじっとアンビカを見返して頷いた。
「折角のご縁です。次はちゃんと約束をしましょう。一緒に夕食をいかがですか? 今度はちゃんとしたレストランで。……水曜か木曜は空いてますか?」
「ええ、いいわよ。水曜なら今のところ夜は空いてるわ」
アンビカはなんとなく胸が高鳴るのを感じていた。この青年に特別な感情はないが、この不思議な人物に翻弄されるのが楽しくなってきたように思えるのだ。こんな些細なことではあるが、何か日常から飛び出した小さな冒険をしている気分になっていた。
「じゃあ、水曜の7時にここで待ち合わせましょう」
映画館の前で待ち合わせというのも気に入った。アンビカは満足そうに微笑み、頷いた。
「それじゃ、また」
二人は一緒に店を出て、それぞれ逆の方向へと歩き出した。暖かい飲み物のせいか、ひどく体がぽかぽかと暖かかった。ふとマフラーに触れる。アンビカは僅かに微笑んで、青年の歩いていった先を振り返った。
青年の姿は人ごみに紛れてもう見えなくなっていた。
 
 
それから3日が過ぎた。約束の日まであと2日だ。アンビカは自室のクローゼットを開けて何を着ていこうかなどと考えながら午後を過ごしていた。
ふいにノックの音がした。笑顔のマニが入ってくる。
「お嬢様。旦那様がお呼びですよ」
 父は今日は夜から出張で出かけるはずだった。不思議そうな顔のアンビカをマニはその大きな体で先導するようにリビングに向かった。
 
 リビングには父と執事のルーティスが座って待っていた。
「お呼びですか、お父様」
 お辞儀をして入室し、向かい合わせに座る。ルーティスは公爵の傍らに控えて、嬉しそうに笑みを湛えている。
「嫌ね、ルーティス。何よ、そんなににやにやしちゃって」
苦笑するアンビカに無表情のまま公爵は切り出した。
「先日の夕食会だが、もう一度お会いしてもらえるようにルーティスが交渉をしてきた。水曜日は予定がなかったはずだな。6時半に約束をとってある。今回は体調を万全にして臨むようにな」
 アンビカは目を大きく見開いたまま固まった。水曜日。あの青年との約束の日だ。
 無言のアンビカに公爵はもう一度声を掛けた。
「正直に言って、先方はかなり渋っていたようだ。それでも了解を得たのだから、くれぐれも失礼のないようにな」
 アンビカは唇を噛んで黙っていた。何かうまい言い訳はないだろうか。じっと考えていると、公爵が人払いをかけた。ルーティスとマニが出て行った後に、公爵はじっとアンビカを覗き込むようにして短く尋ねた。
「……やはり、あの男でなくてはいかんのか?」
驚いて、アンビカは顔を上げた。父の深緑色の瞳は心配そうに、そして悲しげに揺れていた。やはり父はあの時自分とリシュアの姿を見ていたのだ。このような父の目を見るのは初めてのことだった。アンビカは衝撃を受けて言葉を失う。
「……あ、あの……」
 自分はこんなにも父を心配させていたのか。大好きな父を失望させているのか。そう思うと後悔の念が一気に押し寄せてきた。父の心配や憂いを考えれば自分の悩みなどは自分勝手な我侭だと思えた。
「……いいえ。いいえお父様。私、お会いします。申し訳ありませんでした」
静かに項垂れてアンビカは父に詫びた。その言葉を聞いた父は安堵の息を漏らしたが、その表情は寂しそうなままだった。父も娘に無理を課していることを良く分かってはいるのだ。公爵は愛しい娘の頭にその大きな手をそっと載せ、優しく撫でてから席を立った。
 
 
翌日、空いた時間にあの映画館の前で暫く待っていたが、勿論あの青年の姿はなかった。当日約束をふいにすることが分かっていて、連絡もできない。せめて行けないことを知らせたかった。結局その日は会うことができず、アンビカはただ帰るしかなかった。
その翌日もやはりアンビカは映画館の前にいた。チケット売り場の太った女性に青年のことを聞いても彼女は知らないという。もう夕暮れも近い。これ以上は待てなかった。
アンビカは自分の名刺の裏に何か書いて、その女性に託した。
「明日、さっき言ったその青年が人を待って立ってると思うの。これ、渡してくれない?」
名刺の裏には謝罪の言葉と、また機会を改めて会いたいというメッセージを書き綴っておいた。
不思議そうな顔はしたが、女性は快く受け取ってチケット売り場の内側の壁に貼り付けてくれた。少しほっとして、ふと街並みに目をやる。こうしている時にもあの青年はこの街のどこかにいるのだろうか。
そう思ったとき、アンビカは受付の女性に声を掛けていた。
「ね、ごめんなさい。さっきの名刺……返して」
女性は再び不思議そうな顔をして、一度は壁に貼ったカードをアンビカに手渡した。
アンビカはそれをびりびりと千切って、チケット売り場のゴミ箱に投げ入れた。
「これを渡す代わりに、こう伝えて。……やっぱり縁がなかったみたい、ってね」
そうして早足で映画館を後にした。
 
「馬鹿ね……私。何を期待しているのかしら」
腹立たしげにアンビカはそう小さく呟いた。自分はあの青年のことを確実に意識し始めている。どこからともなく現れて、自分の悩みを取り去ってくれそうな目をして微笑む青年。
しかし一方で自分はリシュアとの付き合いも続いている。そしてまた今度は、父の命令とはいえ将来夫になるかもしれない相手と会う約束もしているのだ。
そんな都合のいい選択をする自分に嫌気が差していた。いい加減に目を覚まして現実と向き合うべき時なのだと自分に言い聞かせた。
 夕暮れの中、アンビカはバス乗り場に立って俯いたまま足元に舞ってきた落ち葉をそっと足で踏んだ。
 かさりと乾いた音がして、黄色い落ち葉は粉々になり風に飛ばされていった。
 
 
 
 「着きましたよ」
 運転手がドアを開ける。アンビカは静かに車を降りた。銀色に輝くシルクのドレスの裾が揺れる。今日は嫌味なほどにフォーマルにして来たつもりだ。見合いなら見合いとはっきり設定すればいいものを、こうしてお茶を濁すような食事会にすることが苛立たしかった。
 しかしもうアンビカは腹をくくっていた。自分をあれだけ心配する父が半ば無理矢理進めている縁談だ。余程の事情があってのことだろう。
 彼女はこの縁談を受けるつもりでいた。相手がどんなに嫌な男だったとしてもだ。それが父への愛情の証となり、公爵家の娘としての責任となるのだ。そう思った。
 威厳に満ちた表情で奥へと案内されていく。今日はマニが付いてきている。マニは主人の様子から何かを感じ取っているのか、終始無言で少し後を歩いている。
 
 「氏はもうお越しになっています」
 ホテルのマネージャーらしき男が慇懃な笑みを浮かべてエスコートする。アンビカはボーイにコートを渡してマニを控えさせ、一人で控え室代わりの小さな会議室に入る。一度ここで顔を合わせて名刺を交換するのだ。
 部屋に入っても、そこには誰もいなかった。一瞬緊張が途切れて短く息を吐く。すると、すぐにノックの音がして、マネージャーが入ってきた。
 「お待たせしました。こちらがルドラウト氏です」
 振り返って、アンビカは声を失った。
 マネージャーの横に立っているダークブロンドの青年は、仕立てのいいスーツを着て穏やかな笑みを湛えている。そのオリーブ色の瞳はあんぐりと口を開けたままのアンビカを優しく映していた。
 「……あなた……」
 アンビカがそう声を絞り出すまでに随分と時間がかかった。現に怪訝そうな顔になったマネージャーが痺れを切らして部屋を後にしてから、暫く経ってからのことだった。
 「良かった。やっぱり僕達は縁があるみたいだ」
 青年はそれだけ言うと、にこにこと微笑んでいる。
 その声に初めて我に返ったアンビカは、つかつかと青年に近づいて思い切り平手を振った。しかしその手は空を切る。
 「すみません。今日はこんなつもりではなかったのです」
 アンビカが叩こうとした瞬間、青年は深く頭を下げたためにアンビカの平手は空振りに終わったのだ。
 「ちょっと! 避けないでよ!」
 青年の謝罪も耳に入っていないようで、アンビカは真っ赤になって怒りを抑えられずにいた。
 青年……ルドラウト=キルフは困ったように微笑んで、アンビカを見つめている。
 「すみません。本当に。今日のことは僕も予想外だったんです。お父上から是非にと今日の約束を頼まれたものですから、どうしても断れなかったんです。あの寒空であなたが待ちぼうけになるのではと本当に気がかりでしたよ」
 キルフはそっとアンビカの手をとった。アンビカは即座にその手を跳ね除ける。
 「これはなんの冗談? 私をからかっているの? 最初から仕組んでいたのね?」
 偶然の出会いで日常から逃げ出す冒険をしていたように思っていたのに、実はこの男の掌の上で踊らされていたのかと思うと、情けなく、悔しかった。
 怒りを隠そうとしないアンビカをなだめようと、キルフはとりあえず椅子と水を勧める。
 アンビカはぐいっと水を飲み、たん、と大きな音を立ててグラスを置いた。
 「とにかく、納得できる説明をしないと許さないから」
 キルフは素直に頷いて、アンビカの隣に座って話し始めた。
 
 「あなたをホテルのロビーで見かけたのは本当に偶然です。あなたに振られて、諦めて帰るところでしたから。でも本当に具合が悪そうだったので放って置けなかったんですよ」
 キルフはアンビカのグラスに水を足し、自分の分も注いでゆっくりと口に含んだ。
 「あなたが映画好きだということは以前から知っていました。だからあそこにお連れしたんです。……喜んで頂けたのかな」
 最後はちょっと不安げに、自分自身に問うような口ぶりだった。アンビカは何も言わずに聞いている。
 「そしてあの映画館。あれは……あなたが好きそうな映画だったから。勿論僕もとても好きな作品です。でも何度も観に行ったのは、あなたも観に来るかもしれない。そうしたらまた会えるかもしれない。そう思ったんです」
 アンビカは呆れたような顔になったが、やはり何も言わずに耳を傾けている。
 「……そして、本当は今日、待ち合わせた後に全て明かすつもりだったんです。名前も、身分も、この縁談のことも。それなのに、急にこの約束が入ってしまって。あなたに連絡する訳にもいかないし。今日ばかりは本当に賭けでしたね」
 「呑気なものね」
 アンビカが初めて口を開いて出たのはその言葉だった。
 「賭け? いい気なものだわ。あなたは一人二役でまんまと私を騙してほくそ笑んでいたのね。……馬鹿にするのもいい加減にして頂戴」
 キルフは驚いたような顔で慌てて弁解した。
 「いいえ、いいえ。そういうつもりじゃないんです。……僕は以前からあなたを知っていました。毅然として綺麗で、素敵な人だな、と。でもそんな時にこの縁談が持ち上がったんです」
 アンビカは鼻を鳴らした。
 「あら、そう。良かったじゃない。あなたのその財力なら誰でも思いのままってことでしょ?」
 その言葉に、青年は初めて暗い顔をした。
 「……逆ですよ。そんなこと、思うはずがない。だって悔しいじゃないですか。初めに好きになったのは僕なのに、僕の職業や年収であなたとの縁談が決まってしまうなんて。……僕はあなたとちゃんと縁があることも示したかったし、僕の気持ちも伝えたかった。だからあなたが初めにこのホテルから逃げてくれて良かったと思ってるんですよ」
 アンビカは再び黙り込んだ。この青年の言っていることはどうもよく分からない。これまでの奇をてらうような行動もだ。
 「あなたには付き合いきれないわ」
 アンビカは大きくため息をついた。なんだかとても疲れた気がする。
 「でも、縁があるのは確かだと思いませんか?」
 めげずに青年は白い歯を見せた。アンビカは呆れた顔をしてじっと青年の顔を見つめた。オリーブ色の瞳はとても澄んでいて暖かいものだった。
 「……そうね。それは認めるわ。……悔しいけど」
 すると青年はアンビカの手を引いて立ち上がった。
 「じゃあ、とりあえず食事でもしませんか。場所は変更になっちゃったけど、お互いこれで隠し事はなしです」
 アンビカは根負けしたように小さく吹き出した。
 「あなたみたいに軟弱なのに強引な人は初めてだわ」
 「そんな風に言われたのは初めてだな」
 二人はくすくすと笑い合い、アンビカは手を引かれたまま控え室を後にした。
 「食事中に色々と尋問させてもらうから覚悟してね」
 「勿論です。今日はそのための時間ですからね」
 愉快そうな二人はマニとマネージャーを無視してレストランに向かう。
 残された方の二人はぽかんとして若い二人の背中を見送った。
 「……随分短時間で意気投合されたようですね」
 マネージャーが呟くと、マニは困ったように頷いた。
 「なんだかお邪魔になりそうだわ。……帰ったほうがいいかしら」
 途方に暮れるマニに頷いて、マネージャーは彼女を伴うとロビーに向かって歩き出した。
 

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