風が吹く前に 第3部 (6)                       目次 

 

ハンドルを切りながら、リシュアはゆっくりと深呼吸をした。怒りを溜め込むのは好きではなかった。忘れよう。実家のことも何もかも。今の生活のことだけを考えればいい。
そんなことを考えているうちに道は寺院へと近付いていた。旧市街と新都心の間に位置するカトラシャ寺院。今自分がいるべきなのはあそこなのだと思い、リシュアの心はようやく落ち着きを取り戻した。
 
「お帰りなさいませ」
リシュアが警備室のドアを開けると、ビュッカとムファが待ち構えていたように視線を投げかけた。その目は中将に呼び出された件の顛末を話すことを暗に要求しているようだった。
「……パレードだとさ」
筒状に丸めた辞令をビュッカにぽいと放る。いぶかしげにそれを開いたビュッカと、後ろから肩越しに覗きこんだムファの目が見開かれる。
「うわーっ、すごいですね。おめでとうございます!」
ひどく興奮した様子のムファをじろりと見やってリシュアはため息をついた。
「めでたいもんかね。あんな晒し者みたいな行列の何が嬉しいんだ。全くくだらん」
そんな上司の様子を見て笑いをかみ殺しながら、ビュッカは机の上で丁寧に辞令を平らに伸ばす。そうして改めて辞令を見つめながら笑みを溢した。
「それでも、中尉がこのような名誉ある任務に就かれるのは、我々にとっても鼻が高いことです」
それを聞いては露骨に嫌な顔もできず、リシュアは口をへの字に曲げたまま肩を竦めるしかなかった。
 
このニュースは交代でやってきたアルジュとユニーにも知らされた。
「わぁ、いいなぁ! 僕もやってみたいです、パレード!」
辞令を嘗め回さんばかりの勢いでまじまじと見つめて、ユニーは羨望のため息をついた。
「チビのお前が混じっても、人ごみに埋もれて誰からも見えないさ」
ムファに頭を小突かれて、ユニーは顔を赤くして口を尖らせた。
「過去に非常に小柄な士官が指名された時は特別に馬に乗ったそうですよ」
見回りの準備をしながらアルジュが珍しく助け舟を出した。それを聞いてユニーが「ほらね」と言うようにムファに向かってにかっと笑いかけた。
「お祝いしましょうよ。ちょっと早めの昇級祝いです」
一方こちらは帰り支度のムファ。
「お前はそれにかこつけて飲み食いしたいだけだろう」
リシュアがにやりと笑うと、隣のビュッカがくすりと笑った。
「ははっ。ばれましたか? いいじゃないですか。ラムザ祭まではまだ間があるし、ここらで何かイベントがあっても。ねぇ?」
 人懐っこく笑いかけてくるムファに「勝手にしろ」と言い捨てたものの、リシュアの顔は嬉しそうだった。
 こうしてふざけて談笑できる部下達との時間はとても心地が良い。こうしているとさっきの実家での出来事と不愉快な気分を忘れるようだった。
 「年が明けると俺はパレードの事で呼び出されることが増えるだろうから、4人のシフトをうまく組んでおいてくれよ」
 リシュアがそう言うと、早速ビュッカはその旨を日誌に書き付けた。その後ペンを顎に当てて少し難しい顔をする。
 「そうなると……やはり時期をずらした方がいいかな」
 
 小さく呟いたのをリシュアは聞き逃さなかった。
 「何だ? 何か予定があるのか?」
 先ほどの呟きはどうやら無意識だったようで、聞き返されたビュッカは少し驚いたように顔を上げた。
 「……あ、ああ。はい。実は……。2月頃に式を挙げようかと思っていまして」
 そう言った彼は珍しく照れたように顔を赤くしている。
 「えっ? 本当ですか伍長」
 ムファがからかうのも忘れて眼を丸くした。リシュアも予想外の答えに驚くばかりだった。
「へぇ、結婚するのか。例の彼女とか?」
以前から美人の恋人が居るというのは周知の事ではあったが、そこまで話が進んでいるとは誰も知らなかったようだ。
「おー! おめでとうございます! こりゃあまた一つお祝いが増えましたね」
ムファの頭の中はもうお祝いパーティのことでいっぱいになっているようだ。目をきらきらさせて「いつがいいかなあ」などとぶつぶつ呟いている。
「大事な式だ。人手はなんとかするから好きな時に挙げるといいぞ」
リシュアの言葉にビュッカは微笑んで首を振る。
「いえ、特にその時期にこだわりがあるわけではないですから。むしろ春暖かくなってからの方がいいかもしれません」
「そうか? お前がそう言うなら無理には言わんがな」
ムファに引き続き帰り支度をするビュッカを見ながら、リシュアの頭の中はもう違うことを考えていた。
『司祭様も白いドレスが似合うだろうな……』
実家で見つけた皇女時代の司祭のドレス姿はとても愛らしかった。成長した今、愛らしさは美しさに変わっている。もしもそのようなことが叶うのだとすれば、さぞ輝くような花嫁姿になるだろう。
そんなことを思っていると急に司祭に会いたくなってきた。リシュアはムファとビュッカを見送り、交代要員の若手2人に警備の申し送りを済ませてから司祭の部屋へと向かった。
 
いつもは真っ直ぐ部屋の前に行くのだが、なんとなく今日は気が引けていた。
お茶会の時の失言がその理由だ。何気ない言葉で司祭を傷つけてしまった。もしかすると自分に会うのを嫌がるのではないか。そんな不安が頭を過ぎる。
少し迷った後、リシュアは司祭の部屋の廊下の手前にある大広間で足を止めた。以前はここで硬く鍵を掛けられていたドア。今は自由に行き来できるようになっている。大広間の隅に司祭の部屋へ通じる内線電話がある。久しぶりにリシュアはその釦を押した。
「……はい?」
予想以上に電話に出るのが早く、リシュアは思わず姿勢を正した。
「あ、あの、司祭様。カスロサ中尉です」
 堅苦しく名乗ると、受話器の向こうで息を呑むような緊張が感じられた。
 「……ああ、はい。どうなさいました?」
 「ええと、先程は申し訳ありませんでした。その、失礼をお詫びしたくて……」
 返ってきたのは沈黙だった。リシュアは言葉を続けるべきかどうか迷ったままやはり沈黙を守った。
 「どうぞ、お入りください」
 少しの間を置いて司祭が答えた。リシュアは少しほっとして受話器を置いて部屋の前へと歩を進めた。
 
 ノックをすると、すぐにドアが開いた。その瞬間、鼻腔をくすぐる香りが部屋から漏れてきた。
 「……何の香りですか?」
 思わず、挨拶の前にそう聞いていた。司祭は微笑んで部屋へとリシュアを招き入れ、テーブルの上を指差した。
 「新年のお祝いに焚く御香を選んでいたところです」
 見ればテーブルの上には小さな小包と、紫煙を上げる香炉が置いてある。
 「特別な時ですから、いつもとは違うものを焚くようにしているのですよ」
 確かにいつもの甘い香りとは違い、どちらかと言えば荘厳なイメージのする香りだった。
 「……それで、その。お詫びというのは?」
 司祭は小首を傾げてリシュアを見上げた。
 「あの、その。先程は鳥の話を迂闊に申しまして……」
 言いにくそうにぼそぼそとそこまで言うと、司祭は急に顔を綻ばせた。
 「ああ、そのことでしたか。いいえ、気にしてなどおりませんよ。気遣って下さって有難うございます」
 そう言って司祭はくすりと笑った。
 「あの電話で神妙なお声を掛けられましたので、何事かが起きたのかと驚きました」
 屈託のない笑みを見つめ、リシュアは一気に肩の力が抜けたような気がした。吸い寄せられるように司祭の頬に手を触れてから、ゆっくりと抱き締めた。
 「……中尉さん?」
 少し戸惑うような声が耳元で聞こえる。
 「すみません。少しこうしていてもいいですか?」
 司祭の体からは、部屋のものとは違ういつもの甘い香のかおりがする。それを思い切り吸い込んで、リシュアは抱き締めた手に力を込めた。
 
 全ての醜い感情が体から消えていくような気がした。心が穏やかになってくる。
 こうしてみると先程実家で怒りを振りまいてきたことが、酷く愚かしい行為だったような気がしてくる。
 「司祭様はお強い方ですね」
 両親の死、長年の軟禁、自分を傷つける不用意な言葉。そういう全てを微笑みで拭い去ってしまう。
 それに比べて自分は……。そう思うとリシュアの心は真っ黒な自己嫌悪で埋め尽くされるようだった。
 「強くなど……。私はいつも皆に支えてもらっているだけです」
 司祭ははにかむように微笑んで、そっとリシュアの胸に頭を預けた。
 「中尉さんにもいつも助けられていますよ。有難うございます」
 リシュアの胸に愛しさがこみ上げてくる。背に回していた手で、そっと絹のような栗色の髪を撫でた。最愛の人が今自分の腕の中にいるという幸せを改めて噛み締めた。
 「私が何か少しでもお役に立っているなら嬉しい限りです」
 それは本心だった。何かしてあげたいとは思っても、司祭に対して出来ることは少ない。それがいつも歯痒く思えるのだ。
 司祭はその言葉に答えるように顔を上げて微笑んだ。リシュアも微笑みを返すと、静かに顔を近づける。司祭が目を閉じた。リシュアは静かに唇を合わせる。触れるだけのキス。今まで寺院に閉じ込められていて恋愛経験の全くない司祭に対してはそれが精一杯だった。
 
 ふと、リシュアは思い立ってほんの少し深く口付けてみた。驚いたような司祭が体を急に固くする。リシュアはすぐに止めて唇を離した。
 「すみません。お嫌でしたか?」
 小さく囁くと、司祭は少し赤くなって俯いたまま小さく首を横に振った。
 その仕草に安心したように再び唇に触れると、更に深い口づけをした。司祭は体を固くしたままで、右手でリシュアの腕をぎゅっと掴んでいる。
 そんな様子が実に可愛らしいと思いつつも、リシュア自身もまるで生まれて初めてキスをした時のように胸が高鳴っているのを感じていた。
 それが長いのか短いのか。時間の感覚さえ今はなくなっている気がした。二人はゆっくりと唇を離した。司祭の頬は上気しており、恥ずかしそうに伏せた目は潤んでいた。
 「愛していますよ」
 赤くなった耳元にリシュアはそっと囁いた。今までは軽々しく口にしなかった言葉が、今は何度でも言いたいと思える。
 「有難うございます」
 司祭は小さく返す。同じ言葉が返ってこないことがやや物足りなくもあったが、急ぐことはないと一方で思う。時間ならまだいくらでもある。急ぎすぎて失うことだけは避けたかった。
 リシュアの腕を掴んだまま司祭は動かない。リシュアもまだ司祭を離すつもりはなかった。
 再びその柔らかい唇にキスをしようと、鼻が触れる距離まで顔を近づけた。
 
 その時、ジリリ、とどこかで音がした。
 司祭ははっとして弾かれたようにリシュアから体を離した。名残惜しい手が司祭のローブの袖に触れて、離れた。
 「どなたかいらしたようです」
 司祭は照れを隠すように小走りで部屋の隅に行き、壁に掛けられた受話器をとる。
 リシュアは司祭の後姿を見つめながら、突然の無粋な電話に心の中で舌打ちをしていた。
 「中尉さんに御用だそうです」
 急に司祭が振り返った。不満そうにむくれていた顔を見られたのではないかと慌ててリシュアは笑顔を作った。そのまま歩いて司祭から受話器を受け取る。
 「……俺だ。どうかしたのか」
 動揺を悟られないように受話器に向かって短く答える。
 『中尉、そちらにいらっしゃったんですね。よかった。』
 聞こえてきたのはユニーの情けない声だった。
 「何かあったのか?」
 『はい。さっき橋の検問所から報告があって。寺院に入った人数と帰った人数が合わないそうなんです。一人寺院の中に残っている可能性があるみたいです』
 その言葉にリシュアは一瞬で仕事の顔に戻る。
橋の検問所、とはリシュアがここに赴任してくる前にオクトの頼みで強盗の狙撃をしたあの場所だ。
 現在ミサは行われていないが、祈りを捧げるために毎日大勢の人が寺院を訪れている。
 この検問所では入った人数と出た人数を毎日チェックしている。それが合わないということは怪しい人物が侵入したままになっている可能性も考えられるのだ。
 「今行く」
 短く答えて受話器を置いた。
 そして司祭に向き直り、肩に手を置いてゆっくりと語りかけた。
 「少し警備上で気になることがあったようです。念のために全てのドアに施錠をして下さい。私以外、誰が来ても鍵は開けないように。いいですね」
 司祭は少し緊張した面持ちで小さく頷いた。
 「それと、今日は新月でしたね。深夜には間に合うように戻って来ますから」
 司祭の夢遊病を知って以来、リシュアは新月の前後数日は必ずここで寝ずの番をしていた。時々ドアを開けて彷徨い出ようとすることもあったが、リシュアの働きによって今のところは何事もなく済んでいる。
 「はい。お戻りをお待ちしております。どうぞお気をつけて」
 僅かに不安げな司祭に微笑みかけて、リシュアは部屋を後にした。

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