風が吹く前に 第3部 (9)                       目次 

 クラウスの体調は徐々に回復していった。
 その間も司祭はかいがいしく彼の世話をしていた。手足に力が入らない彼に肩を貸して歩き、食事の時もスプーンで口まで運んでやる始末だ。
 元々保護欲の強い司祭だったが、そこに自分のせいで、という負い目も加わっているのだろう。その姿はまるで溺愛する子供を世話する過保護な母親のようだった。
 リシュアもそれが分かっているので敢えて気にしないように努めた。どうせ記憶が戻れば強く口止めをして追い出せる。それまでの辛抱と思えば耐えられなくもない。
 とはいえ頭で分かっているのと心で感じるのはやはり別物で、さすがに司祭がクラウスの体をタオルで拭いてやろうとした時には必死の形相でそのタオルを取り上げた。
 「そんなことまで司祭様がなさるものではありません。私がやりますからどうぞ司祭様はお食事をなさってきて下さい」
 その言葉に司祭は不満げに小首を傾げる。
 「中尉さんにやらせるわけには参りません。これは私の仕事です」
 しかしここは引き下がるわけにはいかない。司祭の背を押してドアまで連れて行く。
 「いいえ、やりたいんです。やらせてください。それにたまにはあちらに顔を出さないと子供達や部下達に怪しまれますよ?」
 これには司祭も渋々頷くしかなく、後ろを振り返りながらもキッチンに向かって歩いていった。
 
 「やあ。悪いなあ。中尉さんにまで世話かけちゃって」
 リシュアの心情など知る由もなく、クラウスはにこにこと笑っている。
 「ああ、全くだ。なんで俺が男なんかの世話をしなきゃならないんだ」
 むっとしたようにリシュアが答えるが、クラウスはやはりその柔らかい笑顔を崩すことはなかった。
 ここ数日ですっかり顔色も良くなった彼はよく見れば少し異国風の顔立ちで、大きめの黒い瞳と誠実そうで整った目鼻立ちをしていた。どちらかというと遊び人風のリシュアとは丁度正反対の雰囲気を持っている。
 性格も悪くはない。いつも笑顔で人懐こく、明るい人柄は誰にでも好かれるだろう。正直リシュアも本来嫌いなタイプではなかった。
 だからといってその男の体を拭いてやるのが楽しい仕事のはずはなかった。しかし司祭にやらせるのはもっと耐え難い。リシュアは渋々湯につけて固く絞ったタオルでクラウスの背や首を拭き始めた。
 
 「お前に話しておくことがある」
 顰め面で作業をしながらリシュアはクラウスの背中に話しかけた。
 「司祭様はああやって明るく振舞われているが、本当は色々と複雑な事情があってお辛い立場だ。一見お強いようにも見えるが本当は脆いところもある。不用意に近づいて傷つけるような真似はするな。司祭様のことは俺が守ると決めている。お前は記憶を取り戻すことだけ考えていればいいんだ」
 それを聞いてクラウスは真剣な顔でじっと考え込む。
 「そうか……」
 そうして何か納得したように笑顔で振り返った。
 「そういうことなら俺もフィルアニカさんに何かしてあげたいな。この恩を何かの形で返したいんだ」
 「お前、ぜんっぜん分かってないだろ?!」
 リシュアは声を裏返す。
 「そうかな?」
 クラウスはにこにことリシュアを見上げて首を傾げた。リシュアははあ、と大きくため息をつく。
 「とにかく、気安く司祭様に近づくな。言いたいことはそれだけだ」
 「うん。何を心配してるのか分からないけど、気をつけるよ」
 何やら柳に風、というか、手ごたえのない様子にリシュアは馬鹿馬鹿しくなってそれ以上会話を続けるのはやめることにした。
 
 
 新都心のいつものカフェにメイアの姿があった。夕暮れのカフェは会社帰りの人達で賑わっている。
 時間通りに現れたリシュアはメイアが座っているテーブルに近づき声をかけた。
 「やあ。早かったんだね」
 テーブルの上には何枚かの紙が置かれ、メイアは真剣な顔でペンを走らせていた。リシュアの声に気付いて顔を上げ、眼鏡を外す。琥珀色の瞳が優しく微笑んだ。
 「ええ。ちょっと調べ物があったから」
 「へえ、……何だいこりゃ」
 メイアの手元を覗き込んでリシュアは思わず奇妙な声を上げた。
 見たことのない複雑な文字と何かの設計図。もう一枚には魔法陣のような怪しげな模様。
 「ああ、これね。前にカトラシャ寺院の石組みについて書いてある古書を買ったって言ったの覚えてる?これはその写しなんだけどね」
 言われてみれば以前やはりここで待ち合わせした時に大きな本を抱えていたな、とリシュアは思い出した。
 「調べてみたら色々と面白いことが分かって。でも大事な部分が全部難しい言語で書かれていて翻訳に苦労してるのよ」
 確かに見たこともない文字だ。リシュアは歴史や古典に興味があったので学生の頃は色々習ったものだが、その中のどれとも似つかない特殊な文字に見えた。
 「かなり古い時代の神官文字だってことだけは分かったんだけどね。この文字に詳しい人がいなくて。一番近い言語と比較しながら今翻訳をしているところよ」
 
 コーヒーが運ばれてきた。添えられたチョコを齧りながらメイアの手元を覗き込む。
 「それで、何か面白いことでも分かった?」
 「ええ……それでちょっと聞きたいんだけど……」
 覗きこんできたリシュアにこちらも顔を近づけて、メイアは声のトーンを落とす。
 「司祭様に、何か変わった体質や能力はないかしら? 何か知らない?」
 その言葉に、リシュアの表情が固まる。
 「……何でいきなりそんなこと聞くんだい?」
 平静を装い、コーヒーを口に運びながら質問で返す。
 「塔について調べてみたの。そしたらあれがとんでもないものらしいってことが分かったのよ」
 メイアも倣ってカップに口をつける。そうして、ふう、と小さく息を吐いてから言葉を続けた。
 「塔に使われている石は特殊なもので、天女の力を増幅させる効果があるらしいわ。しかもその石組みの方法が変わっていて、ほら、この魔法陣あるでしょう? これと同じ効果を持たせるように組んであるらしいの」
 「……ふうん」
 リシュアは目をぱちくりとさせる。魔法陣。そんな怪しげなものがメイアの口から出てくるのがどうにも違和感を感じて仕方がなかった。
 メイアは探るような目でリシュアを覗き込む。
 「司祭様が天女かもしれないって噂は結構その筋では有名なのよ?」
 「有名……? その筋ってなんだ?」
 リシュアは思わず苦笑した。
 「古代の歴史や文明を調べていくと天女の力を使った魔法のような力に行き着くわ。だから研究者の中にはオカルトじみた研究に進んでいく人も多いのよ」
 「へぇ……」
 そういう超自然現象好きの話はいつの時代でも人々の好奇心をかきたてる。怪しげなTV番組や雑誌は目にしたことはあった。リシュア自身司祭に会い、異能者と触れ合うまでは眉唾にしか思っていなかったことだ。しかし自分の目の前にいる研究者であるメイア自身、異能者なのだ。
 そんなことを考えながら、同時に彼は迷っていた。メイアのことは信用ができる。しかし司祭の秘密を話すのはリスクが大きすぎはしないだろうか。
 「確かに体のつくりは常人とは違うようだな」
 遠まわしな言い方でリシュアはまず答えた。
 「そうなの。やっぱりね。病気や怪我もしないんじゃない?」
 言い当てられてリシュアはどきりとした。
 「何でそう思うんだい?」
 心はもう読まないと約束したのだから、何か根拠があるのだろう。
 「それが天女の特徴だからよ。他の天女のかけらとはそこが大きく違う。怪我をしても、一度死んだように見えても必ず無傷まで回復する。どの伝承にもそれは記されているの」
 するとやはり司祭は天女なのだろうか。宗教上の架空の存在だと思っていたが、こんなに身近にいたのだろうか。
 「司祭様が本物の天女だとして、その塔と何の関係があるんだい?」
 明確には答えないまま、リシュアは質問を続ける。
 メイアは魔法陣と塔の石組みの絵を見せて難しい顔をした。
 「ほら、この石組みが魔法陣と同じ働きをするって言ったでしょ? これは天女の力を引き出した上で吸い取って蓄えるためのものなの。しかも更に螺旋状になっていることでその効果は何倍にもなるわ。司祭様が天女だとしたら、全くとんでもないところに閉じ込められていたってことよ。その能力が何かはわからないけど、自制も効かずに暴走しているんじゃないかしら」
 
 その言葉を聞いてようやくリシュアは司祭の夜の行動を理解した。あのように新月の度に彷徨って生き物を襲うのはあの塔のせいだったのか。そのために司祭が苦しんでいるのだとしたらなんと気の毒なことだろう。
 リシュアは一つ呼吸を置いて、コーヒーを一口飲むと真剣な顔で告げた。
 「君の言うとおりだ。司祭様には特別な力がある。……それをここで言うわけにはいかないが、そのせいで司祭様はお困りになっている。なんとかする方法はないかな」
 メイアは資料の紙をじっと見つめ、自分のメモに目を走らせる。そうして短く息をついた。
 「ごめんなさい。まだそこまでは分からないわ。もっと色々と調べれば分かるかも。翻訳も続けてみるわ。何か分かったら必ず連絡するから」
 店はますます賑わってきていた。
 「有難う。……じゃあ、そろそろ出ようか」
 リシュアが立ち上がり、メイアもそれに続く。時間はもう8時を過ぎていた。
 「そうね。ちょっとお腹がすいたわ」
 今日はリシュアがメイアを食事に誘ったのだった。勿論もう下心はない。カタリナ=ルミナの警護で世話になったお礼のつもりだった。
 
 
 今日は最近出来たばかりの人気のレストランを予約していた。新都心一の名ホテルのシェフが独立して作ったということで、予約をとるのにも随分と苦労した。早い時間は予約が一杯で、この遅い時間にようやく席をとることができたのだった。
 しっとりとした石畳と煌めくイルミネーションの庭を抜けて店の入り口に着く。メイアをエスコートしてドアをくぐったリシュアは1組のカップルとすれ違う。特に注視しなかったのだが、コートを脱ごうとした手がそのカップルの男性の肩に触れた。
 「おっと、失礼」
 その声に、連れの女性が振り返った。その女性と目があったリシュアは思わず声をあげた。
 「あ……」
 連れの女性はアンビカだった。彼女もすぐにリシュアに気付いたようだ。そして素早く隣のメイアにも視線を送る。
 「ん? 知り合い?」
 アンビカに声をかけたのはダークブロンドの髪にオリーブ色の瞳の人の良さそうな青年だ。リシュアはどこかで彼を見たような気がして首を捻った。
 「え? ああ、仕事でね。……行きましょう」
 素っ気無い素振りで目礼だけしてアンビカは連れの男の腕を引いて出て行った。
 彼らが出て行った後、リシュアはようやくその男のことを思い出した。
 「ああ、銀行の……」
 以前ミイラ化した状態で発見された銀行員のトーラス=ヘインについて質問をしに行ったアウシュ銀行の若い相談役、名前は確かルドラウトとか言っていた。奇妙な縁もあったものだとリシュアは肩を竦めた。
 メイアはアンビカのことは気にしていないようだった。何もなかったように振舞う彼女をリシュアは有難く思った。
 
 食事の間も天女やその伝承などについてメイアは色々と説明してくれた。今の彼女はすっかりそちらの方面に興味が傾いているようで、時折フォークを持つ手が止まるほどだった。
 とはいえリシュアも近頃は独自にルナス正教の伝承などについて調べていたので、もたらされる情報に目ぼしいものはなかった。
 2時間程で2人は食事を終えた。
 噂になるだけあり、食事はとても綺麗で美味しかった。リシュアもメイアも満足げに店を出た。
 いつも通りメイアを家の前まで送る。玄関で二人は微笑みあった。
 「ごちそうさま。楽しかったわ」
 「ああ、俺も楽しかった。それじゃ研究頑張って。無理はしないようにね」
 リシュアはメイアの額に軽くキスをした。
 メイアは上目遣いにリシュアを見てちょっと意地悪っぽく笑う。
 「ね。好きな人ができたでしょ」
 いつもながらメイアの言葉にはどきりとさせられる。言葉に詰まってぎこちない笑みを浮かべていると、メイアは嬉しそうに笑った。
 「いいのよ。あなたとは良いお友達でいたいわ。その人と上手くいくといいわね」
 そうしてちょっと背伸びをしてリシュアの柔らかい髪を優しく撫でた。
 リシュアは嬉しかった。
 彼女のような知的で明るい美女とこういう良い関係を保てることがとても有難いと思った。一時は進展しない関係に焦れたこともあったが、結果としてそれが良かったのだろうと思う。
 二人は軽いハグを交わし、握手をして別れた。
 
 
 自宅でシャワーと着替えを済ませて、リシュアは再び寺院に戻る。最近は自宅よりも寺院で寝泊りする方が多い。
 寺院は新都心の喧騒とは一転して、心地よい静寂に包まれていた。リシュアは大きく深呼吸してから庭を散策しはじめた。中央の庭を抜け木立を過ぎて塔の前に辿り着いた。
 オクトとこの寺院を訪れた時、妙な不安と息苦しさを感じたのを思い出す。この塔には一体どれだけの秘密が隠されているのだろう。
 「特殊な石、か……」
 メイアの言葉を思い出し、塔の石の壁にそっと触れてみる。見た目は何の変哲もない古びた石だ。
 しかし、リシュアの指がその石に触れたとき、僅かだが痺れるような、微かな痛みのようなものを感じた。彼は驚いて指を離す。
 じっと指先を見たが、特になにも変化はない。もう一度恐る恐る触れてみる。しかし今度は何も起きなかった。
 「……気のせいか」
 メイアの話を聞いて少しナーバスになっているのかもしれない。
 腰に手を当てて塔を見上げた。これが司祭を苦しめる元になっているのだとしたら何とかしなくてはならない。だが、今の自分に何ができるのか。改めてリシュアは己の無力さを情けなく感じていた。
 
 ふと、背後の気配に振り返る。そこには司祭がランタンを手にして立っていた。手にはルニスの花を持っている。
 「司祭様。こんな時間にどうかなさったのですか?」
 その言葉に司祭は微笑だけを返した。そうして音もなく塔の中に入っていく。
 不思議そうに見送ってから、慌ててリシュアも後を追った。
 真っ暗な塔を中央に進みながら司祭はランタンから蝋燭に火を移していく。ポツポツと灯りが増えて塔の内部をぼんやりと幻想的に浮かびあがらせた。
 リシュアが見守っていると、司祭は手にした1輪のルニスの花を祭壇の上に置き、膝をついて祈り始めた。月明かりの下ではなく、こうして蝋燭の灯りだけに照らされる司祭の姿も神秘的で美しかった。
 魂を奪われたようにリシュアが司祭の後ろ姿を見つめていると、長い祈りを終えた司祭がゆっくりと立ち上がった。
 「ああ、すみません。祈りの前に言葉を口にすると願いが逃げてしまいそうでお返事が出来ませんでした」
 申し訳なさそうに司祭は微笑んだ。
 「そういうことでしたか。いいえ、こちらこそお祈りの邪魔を致しました」
 司祭は笑顔のまま首を横に振る。それまで少し近寄りがたかった空気が薄れ、リシュアはようやく司祭に歩み寄った。
 「何をお祈りしたのですか?」
 祭壇の上のルニスの花は甘い香りを放ち、それが苦手なリシュアは無意識に少し息を詰めた。
 「……クラウスさんの記憶が早く戻りますようにと」
 またあの男のことか、とリシュアは思ったが、記憶さえ戻れば寺院から追い出すことができる。リシュアは一緒に祈りたい気分だった。
 
 

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