風が吹く前に    第一部  (1)     千石綾子                       目次

 


 リシュアは日当たりの良いソファに横になって新聞を眺めていた。相変わらず紙面を賑わしているのは何件かの連続殺人事件だ。情報の少なさに業を煮やした新聞社がこぞって各分野の見識者のコメントを並べては名探偵ばりに犯人像の推理を書き立てている。そんな眉唾な記事はさっさと読み飛ばし文化面で手を止めた。中央美術館でユルフィン侯爵家所蔵の美術品の企画展があるらしい。普段なら顰め面でページを飛ばすところだが、今日のリシュアは違った。貴族の装飾品に目がないメイアのことだ。次の休日にでも誘ってみればかなりのポイント稼ぎになるだろう。そんな事を考えているところで、正面のドアが静かに開いた。
 視線を上げると、今しがた会議を終えたオクトが資料を抱えたまま少し驚いたような顔でドアの前に立っていた。
 「いよう、おかえり」
 「……ただいま」
 オクトは一度開けたドアのプレートを確認し、ソファで寛ぐ友人へと再び視線を戻した。
 「ここは俺のオフィスだよな」
 「何だ? ボケたのかお前」
 リシュアは立ち上がりデスクの方へ行くと、引き出しの中にあった鋏で先程の美術展の記事を切り抜き始めた。
 「それ、俺の新聞……」
 言いかけて、諦めたように口をつぐんだ。
 「寺院の方はどうだ?」
 友人の問いかけに、リシュアはちょっと首を竦めて見せた。もう用のない新聞をソファの上にぽいと投げ捨て、切り抜いた記事を大事そうに胸ポケットに仕舞った。
 「さてね。行ってないから良く分からん」
 オクトは目を丸くした。
 「行ってないって? おいおい、さすがにそれはまずいだろうリシュア」
 「知るか。歓迎もされていないものをどうやって護れって言うんだ」
 リシュアは初日の顛末をオクトに話した。勿論司祭を尼僧と間違えて鼻の下を伸ばしていた事は除いて、だ。
 「ああ、司祭の軍人嫌いは有名だからな」
 「先に言え先に! ……全くやりにくいったら……」
 「で、ここで暇つぶしか。やれやれだな。せめて自分のオフィスで寛げよ」
 「うちの秘書が煩くてな」
 リシュアは大きく伸びをした。
 「まあ、寺院の方は部下がしっかり見てるから大丈夫さ……」
 


 「誰か僕のチーズプディング食べたー?」
 冷蔵庫に頭を突っ込んで大声を出しているのはブランク=ユニー。先日リシュアのオフィスで無愛想な上司の洗礼を受けた新米兵士だ。
 「どうせまた自分で食べて忘れてるだけだろ」
 慣れたように聞き流しながら警備日報を書いているのは同僚のハタナス=ムファ。少し浅黒い肌に筋肉質の体、彫りの深い顔立ちから察すると西部の少数民族の血を引いているようだ。
 「そこまでボケちゃいないさ!」
 ユニーは口を尖らせる。赤子のような白くて透明な肌と柔らかな栗色の巻き毛が彼を更に若く見せている。
 「きっとアルジュの奴だ。今度は名前書いておかなくちゃ……」
 ぶつぶつと呟きながら仕方なくジンジャーエールを手に取って冷蔵庫のドアを閉めた。今日の寺院警備の当番は彼ら2人。そして主任のリシュアのはずだった。しかし赴任してくる予定だった上司は初日に警備室に立ち入ることもなく寺院を後にしたという。そしてそのまま数日経つ今日も依然として姿を現さない。
 初めはさすがに戸惑ったが、元々主任不在の状態が続いていたし、新しい上司が少々変わり者であるということも耳にしていた。若さ故に順応性もある彼らはこの状態にとうに慣れてしまい、平穏な日々を送っていた。


 

 外では風の音が静まり始めていた。お気に入りのコメディドラマを見終わったユニーは、満足げに飲みかけの瓶を冷蔵庫に仕舞った。
 「次の巡回は僕が行ってくるよ」
 フードの付いたロングコートをクローゼットから取り出しゆっくりとボタンを留めると、棚の上から懐中電灯を取り出した。
 「一昨日あたりから塔の西階段の踊り場に蝙蝠が棲みついてるらしい。驚いて転げるなよ」
 読んでいた本から顔も上げずにムファは同僚を送り出した。
 まだ日が落ちる前とはいえ寺院の中は薄暗く、空気もひんやりとしている。ユニーは深く被ったフードの襟元を片手で掴み、マフラーをして来れば良かった、と一人呟いた。小さなブーツがたてる足音がやけに大きく響いて聞こえた。
 週末のミサ以外にはこの寺院を訪れる者はいない。今日も何事もなく1日の勤務が終わろうとしていた。広い庭をぐるりと廻り、沢山の蝋燭が灯る礼拝所を過ぎて長い廊下に通りかかった時、ユニーはふと足を止めた。     
 どこからか鋭い視線を感じたのだ。      
 気のせいではない。この部屋のどこかで、確かに誰かが息を殺してこちらをじっと見つめている。ユニーの全身から一気に汗が噴き出した。      
 「ぼ、僕が気付いてないと思ったら大間違いだぞ!」
 威嚇するつもりで張り上げた声は、情けなくも上ずって掠れていた。それでも闇に潜む何かには効果があったようで、布を擦るような音と共に廊下の向こう側へと怪しい気配は消えていった。



 「蝙蝠じゃない。あれはもっと何か……違うものだよ!」
 寒さと恐ろしさで血の気の引いた顔つきのユニーは、くっくっと体を揺する同僚に抗議の声を上げた。
 「はいはいはい。きっと物陰から恐ろしいドラゴンがお前の尻に喰い付こうと狙ってたんだろうよ」
 「ムファったら!」
 今度は顔を真っ赤に染めて、握り拳をさらに硬く握った。
 「あんまりからかうなよ。次はお前が尻を噛まれるかもしれんぞ」
 本気とも冗談ともつかない顔で間に割って入ったのは同じく寺院警備担当のアルバス=ビュッカだ。 ユニーの報告を受け念のために2名の兵士が招集されていた。交わされる会話とは裏腹に、現場には若干の緊張感が漂っていた。
 ビュッカは皆の中でも年長者で落ち着きもあった。階級も伍長と最も高い彼が主任不在の今は実質的にリーダー役をこなしていた。
 「しかし僕も気をつけて巡回してきてみたけれど特に異常は感じなかったよ。何かの小動物かもね」
 今まで彼らのやりとりを黙って見ていた細身の少年が ぽそりと愛想無く言い捨てた。黒髪のその少年はカナク=アルジュ。ユニーとは正反対の性格だが、同年代で意外と仲は良かった。寺院の警備は通常彼らと主任の5名で交代で行なわれていた。
 「まあ何事もなくて良かった。私は 司祭様に報告してくる。アルジュとユニーは帰っていいぞ。ムファ、報告書を本部にFAXしておいてくれ」
 てきぱきと指示をするビュッカの背後で重い木のドアが開いた。不機嫌そうなリシュアの顔がこちらを覗いている。
 「一体何事だ。こんな時間にわざわざ呼び出しやがって……」
 どうやらまたどこかの美女とディナー中だったらしい。いつもにも増して眉間の皺は深い。
 「一応異常事態ということでお声を掛けさせて頂きました」
 上司の様子に怯む様子もなくビュッカは敬礼をした。
 軽く全員の自己紹介をした後、ビュッカはリシュアに煎れたばかりの紅茶とソファを勧めた。そして自分も腰掛けると手短に事の経緯を説明した。
 「なるほどね」
 リシュアは帰らずに残っていた部下たちの顔をぐるりと見回した。
 「まあ、適切な対応だな。ヒヨっ子共にしては上出来だ」
 「ありがとうございます」
 表情も変えずにビュッカは礼を言った。
 「よし。じゃあ司祭には俺が報告をする。非番だったものは帰っていいぞ。ええと、ビュッカ、案内しろ」
 ビュッカは黙って小さく頷いた。


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