風が吹く前に 第1部 (10)                       目次 

     

 翌日、リシュアは久々に自分のオフィスの椅子に座っていた。正確には待ち構えていた秘書に無理矢理座らされ、溜まった事務仕事を処理していたのだが。
 「ミレイ君、今日はこの辺にしておこうじゃないか」
 「ダメです中尉。またいつ戻って来て下さるのか分からないんですから」
 間髪入れずに返したところを見ると、おそらく上司の言葉を予想していたに違いない。リシュアは頭を掻いて、浮かせた腰を再び椅子に沈めた。
 と、その時、軽いノックの音がした。
 「どうぞ」
 ミレイが素っ気無く答えると、ドアが静かに開いてオクトが顔を覗かせた。
 「あ……ラフルズ少佐! おはようございます!」
 途端に笑顔を輝かせるミレイ。現金なこった、とリシュアは小さく呟いた。
 「珍しくこっちに居ると聞いてね」
 オクトはいつもの屈託のない笑みを浮かべてドアの所に立っていた。ミレイはうっとりとした顔を隠そうともせずにオクトの横顔を見つめている。
 「ちょっと出れるか?」
 リシュアは勝ち誇ったような顔をミレイに向け、にんまりと笑って答えた。
 「勿論だとも」
 後に取り残されたミレイは一人ふくれっ面で閉まるドアを恨めしそうに睨んでいた。
  

 ビルの中にあるテナントを避けて、2人は少し離れた小さなカフェに入った。
 「最近は真面目に通ってるみたいじゃないか。司祭とはうまくやってるみたいだな」
 にっこりと笑うオクトに、リシュアはうーん、と唸るだけだった。頭を過ぎるのは司祭の説教をする姿。あれ以来、僅かに残っていた浮かれ気分もすっかり吹き飛んでしまった。できることなら担当を外れたいものだが、今はあの不思議な侵入者のことが純粋に気になっていた。
 この事件が落ち着いたら異動願いを出そう。リシュアはそう固く心に決めていた。
 そんなリシュアの心中を知る由もなくオクトはにこにこと親友を見つめている。
 「ところでな」
 急にオクトは表情を硬くして、声のトーンを落とした。
 「差し出がましいと怒られるのを承知で言わせて貰うぞ」
 「なんだよ勿体ぶって。差し出がましいのはいつものことだろうが」
 軽くいなすリシュアの言葉が終わる前にオクトは切り出した。
 「ドリアスタ公爵家とはまだ関わりがあるのか?」
 突然意外な名前を出されて流石にリシュアも一瞬言葉に詰まった。
 「お前……」
 「俺も驚いたさ。お前の言葉を伝えに行ったら、あのご令嬢じゃないか」
 オクトは言葉を選んでいるように見えた。
 「さあなぁ、たまたま会っただけで名前も聞かなかったよ」
 はぐらかすリシュアをオクトは厳しい顔でじっと見続けた。
 「リシュア。隠すならもっと上手にやらないと……もしかするともう中将は知っているかもしれないぞ。お前が……ルーディニア子爵家の長男だとな」
 リシュアは一瞬笑みを浮かべてはぐらかそうとしたが、オクトの厳しい顔を見て、やめた。
 「まあ、いつかはバレるかとは思ったがな。俺にとってはどうでもいいことだ」
 リシュアは目を逸らしてコーヒーを口に運んだ。
 「お前にとってはどうでも良くてもこちらはそうは行かないんだ。もうあの手紙のように隠してやれないぞ」
 リシュアは目を丸くした。
 「手紙……ってまさか」
 「あのなぁリシュア。局留めにしたって宛名でばれるんだよ」
 オクトは頭に手をやって溜息をついた。
 「今よりずっと貴族とは険悪だったあの頃に、戦地から元老院関係者宛に手紙なんか出しやがって。検閲の前に俺が抜き取らなかったらどうなってたか……」
 リシュアは気まずそうにコーヒーを飲み下した。
 「中将がもしもお前の出生を知ってこの人事にしたのなら気をつけたほうが良い。少なくとも昔の知り合いに会うような真似は避けるんだな」
 「まあ、忠告は有難く聞いておくさ」
 同じような事を最近言ったような気がするな、とリシュアは思いつつ素直に答えた。
 「それと……今頃だが手紙の件も世話になったな」
 少し言いにくそうに謝意を伝えるリシュア。
 「じゃあ、ここはお前の奢りだな」
 オクトはカップを掲げてにこりと笑った。
  

 寺院に向かう信号待ちの車の中で、リシュアは封筒から報告書を取り出して眺めていた。途中科学班に寄って受け取って来たものだ。昨晩ムファが届けた例の血液の分析結果が事細かに記されている。
 「人間……なのか」
 他の細かい記載事項は良く分からなかったが、とりあえずあの侵入者は人間に間違いはないようだ。アルジュの言う通り、何か特殊な技術を用いているのだろうか。
 信号が青に変わった。
 できれば中将に報告などせずに済ませたいリシュアは苦い顔で車をスタートさせた。

 

 浮かない顔で入って来た上司を見て、警備室の面々は談笑をやめ、ボードゲームの手を止めた。
 「とりあえずヤツは人間らしい。詳しい結果はまた後で入るが、魔物やお化けではないようだな」
 前置きなしでリシュアは部下達にそう伝えた。
 「それは朗報ではないのですか」
 ビュッカが訝しげに尋ねた。
 「だといいがな」
 リシュアはコートをソファに投げ出し、隅の方に腰掛けた。ムファは慌てて席を譲って立ち上がった。
 「もしもアルジュの言うように特殊装置を使っているなら、後ろにはかなり面倒な相手がいるってことだ。我々だけでは手に負えないとなると……本部の奴らが干渉してくるかもしれん」
 「それは……元老院も黙ってはいないでしょうね」
 厳しい面持ちでビュッカは上司の言葉を継いだ。
 「厄介な事にならにゃあいいが……」
 溜息まじりに呟かれたその言葉に答えるものは誰もいなかった。
 

 

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