風が吹く前に 第1部 (14)                       目次 

  

  あれだけの目に遭ったにもかかわらずリシュアには大きな怪我もなく、しばらく打ち身と派手な痣に悩まされただけで済んだ。
 「本当に悪運が強いんですから」
 心配を通り越して呆れた顔のミレイ。
 「強運ではなくて、日頃の鍛錬だよミレイ君」
 すました顔で返し大きく伸びをすると、再び事務仕事に戻る。あれ以来寺院には足を向けていない。ミレイに散々ごねられたが異動願いも出して、あとは返事を待つだけだった。
 内線が鳴った。洗い物で手が放せない秘書の代わりに受話器を取る。電話の主はオクトだった。
 「ちょっとラボまで来れるか?」
 ああ、と短く返事をして地下の科学班のラボに向かう。気分転換にはちょうどよかった。


 「興味があるだろうと思ってね」
 ラボに着くと、オクトはいくつかのファイルを手渡した。事件のファイルに混じって見たことのない男達の顔写真もある。
 「寺院に侵入していた男はウチで追っていたのと同じ人物だと分かった」
 無言のリシュアの返事を待たずにオクトは話しはじめた。
 「こいつがそうだ。アリデア=イデス。有名な窃盗団のメンバーの1人だよ」
 「窃盗団? 単独犯に見えたがな」
 「……先月アリデア以外の全員が廃工場で射殺体で発見された。アリデアはその容疑者だ」
 リシュアは黙って浅黒く目つきの悪いその男の写真を見つめた。
 「これを見てくれるか。唯一残っているアリデアの姿だ」
 オクトがビデオのスイッチを入れると、防犯カメラの映像のようなものが画面に映った。夜の宝石店の店内でアリデアがショーケースを物色している。彼はガラスケースの中からいくつか選んではポケットに仕舞っていった。
 「ここだ」
 作業に熱中していたアリデアの手が止まり、ショーケースを元に戻す。程なく奥から警備員が近づいてきた。彼はじっと立ったまま動かない。警備員はすぐ横にいるアリデアにまるで気が付かないかのようにすれ違い、そのまま通り過ぎて行った。
 「後で話を聞いたが、この警備員はこの時誰も見ていないそうだ」
 リシュアは一時停止された画面を凝視した。
 映像に残ったアリデアは全く透明などではない。何かの技術を使ったものならば映像にも残らないはずではないのか。
 「つまり……どういうことなんだこれは」
 唸るようなリシュアの問いに答えるようにオクトはもう1枚の資料を手渡した。
 「まだ公式に認められてはいないんだが、どうやらまれに特殊な能力が身につく先天性の病気が存在するらしい」
 「病気だと?」
 「昔ならモンスターとか魔女とか言われた部類じゃないのかな。彼の場合は他人の脳に働きかけて自分の姿を見えていないと誤認させる力があった」
 とてつもない話にリシュアは言葉を失った。
 「あくまで推測だがね。何せ検証しようにも本人が炭になってしまったんだから」
 「真実は闇の中、か」
 リシュアはぼんやりとモニターの画像を眺めた。
  
 
 定時でオフィスを後にしてリシュアは駐車場へと向かった。車のキーを捜してあちこちのポケットを探る。すると手に何かの紙が触れた。取り出すとそれはクリーニングの預け札だった。
 「しまった……すっかり忘れてたな」
 あの庭で、イアラが手渡してくれた毛布をずっと預けたままにしていたのだ。紙を手にしばらく悩んだ後、リシュアは車を街に向かってスタートさせた。
 寺院に着いた頃にはすっかり日が傾いていた。門の手前で立ち止まったまま思い悩んでいるリシュアの髪を、先程まで吹いていた風の名残りが弄ぶ。意を決して門をくぐる。人気のない庭を通り礼拝堂に入ると、イアラが祭壇の前に立っていた。彼女はバケツと布を手に祭壇の掃除を始めようとしているようだった。
 「こんにちは」
 「やあ」
 簡単に挨拶を交わすと、後は二人とも黙ったままお互いを見つめていた。
 「ロタのこと……有難う」
 はじめにイアラが切り出した。
 「いや、こちらこそ、これ」
 リシュアが手にした毛布を少女に差し出した。彼女はそれを黙って受け取った。
 「「あの」」
 二人同時に何かを言いかけた時、礼拝堂の入り口に聞き慣れない足音が近づいてきた。リシュアが音の方を見やると、ステッキを手にした紳士がゆっくりと礼拝堂に近づいてきていた。
 「うおっ」
 思わず呻いて、リシュアは咄嗟に祭壇の陰に身を隠した。逆光で顔はよく見えなかったが、その姿をリシュアは見紛うはずもなかった。
 紳士の名はドリアスタ=ルジュ=ギルダール侯爵。元老院の長であり、アンビカの父……つまり本来ならリシュアの舅となっていたかもしれない男だ。
 侯爵は長い黒髪を胸元できっちりと切り揃え、正装に身を包んでこちらへ向かって悠然と近づいてきた。切れ長の鋭い目には全くと言っていい程に隙がない。
 「いらっしゃいませ、侯爵様。司祭様は控え室でお待ちです」
 イアラが丁寧に挨拶をすると、侯爵は黙って頷き、奥の部屋へと姿を消した。
 「行っちゃったわよ」
 その声を聞いて、リシュアはようやく亀の子のように祭壇から首を出した。イアラはそんなリシュアを不思議そうに見下ろしている。
 「いやなに。俺はどうも貴族が苦手でね」
 良く分からない言い訳を呟きながら這い出すと、ふう、と大きく息をする。
 「何しに来たんだあのオヤジ……」
 「明日のミサで話す経典の打ち合わせよ」
 イアラの顔が少し曇ったのをリシュアは見逃さなかった。問う代わりに、その目を静かに覗き込んだ。
 「司祭様はルナスの経典があまりお好きではないの。でもダメ。話すことは全て元老院の偉い人達が決めているのよ」
 「……へえ」
 意外な答えにリシュアは軽い衝撃を感じていた。あの嫌悪感を誘う説教が、実際は強要されてのものだったとは。
 「軍人にここに閉じ込められて……貴族に経典を押し付けられてる。私達は、何もして差し上げられない」
 イアラはそれきり何も言わずに祭壇の掃除に戻った。リシュアはかける言葉もなくその姿を見つめていた。
 「もうここに用はないんでしょ」
 俯いたままイアラがぽそりと吐き出した。リシュアは何故か冷水をかけられたような気分になった。これは後悔だろうか。
 このままここを離れてしまうのはまだ早い。そんな気がした。
 「明日のミサの警備は人手が足りないかもしれないな」
 イアラは手を掃除の手を止めると、リシュアの灰色の瞳をじっと見上げた。その目は心無し微笑んでいるようだった。

 

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