風が吹く前に 第1部 (7)                       目次 

  

 時間が経つにつれ、礼拝堂は参拝の人達で埋め尽くされてきた。皆顔見知りらしく銘々に朝の挨拶を交わしている。その中には乳母のマニを連れたアンビカの姿もあった。リシュアは昨日の件を謝りたいとも思ったが、貴族達が溢れる礼拝堂に入る気には到底なれなかった。
 特にマニはアンビカを溺愛しており、許婚のリシュアに対しては当時からやたらと厳しかった。万が一彼女に見咎められては面倒なことになるだろう。不本意ながら今日のところは彼女には関わらないことにした。
 一通り挨拶を終えた人々が席に着き始めた頃、礼拝堂へと続く通路の奥の方から澄んだ音が響いてきた。その音が聞こえ始めると、一瞬のうちに礼拝堂は沈黙に包まれる。人々は静かに立ち上がり、音のする方へと目をやった。彼らの目にまず映ったのはえんじ色の短いケープを羽織った栗毛の少年だ。少年はクリスタル製の大きなベルを鳴らしながら礼拝堂へと歩いてくる。その後ろを静かに進んでくるのは、白地に金刺繍を施した長いケープを身に纏った司祭だった。司祭はゆっくりと歩を進めて祭壇へと上がった。刺繍の輝く金糸以外にも、その純白の衣の織りに何か細工があるのだろう。無数の蝋燭の灯りの中で、司祭は文字通り煌いて見えた。
 リシュアは息を飲んで司祭を見つめた。
 以前日の光の下で見た優しく微笑む聖母のような姿ではなかった。その美しさは変わらなかったが、雰囲気はまるで別人のように感じられた。堂々と威厳に満ちたその姿は、皇帝の血を継ぐ者として全く恥じるものではなかった。また凛として動じないその瞳は聖なる者として人を惹きつけるには十分過ぎた。
 明らかに場の空気が変わっていた。
 リシュアは鳥肌が立つのを感じていた。こんなにも美しく、力強く、確固としたものがこの世に存在したとは。
 リシュアをはじめその場の誰もが身じろぎ一つせず、ただ一点司祭を見つめていた。しばらくの沈黙の後、司祭は参拝者達を見回してから右手を軽く上げて彼らに着席を促した。人々は深々と一礼した後、静かに腰を下ろす。香が焚かれる中オルガンの音が流れ始め、司祭は静かに歌いだした。その旋律は以前リシュアが真夜中に聞いた司祭の不思議な歌に良く似ていた。しかしその歌詞は現代の言葉で神を讃える普通の賛美歌だった。追いかけるようにして会場の皆も合唱を始めた。司祭の声は格別大きくはなかったが、誰のものよりも際立って礼拝堂に響いていた。
 心を掴まれるような美しい声だった。リシュアは思わず目を閉じて聴き入っていた。しかし合唱はそれ程長くはなく、続いて司祭が説教を始めた。
 「我々ルナスの民は創造の神ルナスとその使いである天女に常に護られています。我々は一時たりとも神と天女への忠誠を忘れてはなりません」
 そう説いた後、経典から古い神話を語り始めた。
 「遠い神代の時代のことです。遠く3つの海を隔てた退廃の地にラチノアという都市がありました。人々は繁栄の末に怠惰な生活に溺れ、異教の神を崇めておりました。そのために地は汚れ水は腐り人の血は汚れていました」
 何気なく聞いていたリシュアは昔その話を聞いたことがあるような気がして思わず真剣に耳を傾け始めた。
 「異教徒の血は星を穢します。神はこの地を清めるために自らの半身である天女を遣わしました。天女の鎌から放たれた雷は、街と異教徒を全て一瞬で焼き尽くしました。神と天女の力により地は再び清められたのです」
 リシュアの顔はみるみる強張っていった。
 「この宇宙で、唯一神の寵愛を受けているのが我々ルナスの民であります。我々は神の血を引く選ばれし民なのです。その誇りに恥じることのない行動を常に選ばねばなりません。正しい道を見失ってはいけません。我々が正義を行い、他の卑しい血を統べることで宇宙の秩序が保たれるのです。神はそれを望まれています。ルナスの民によって秩序の保たれた世界こそが最後に行き着くべき理想郷となるのです」
 リシュアは呆然として自信に満ちた司祭の顔を遠くから見つめた。耳を傾ける人々は夢の中にでもいるような表情をしている。
 「こりゃあ相当な選民思想だな」
 リシュアは嫌悪感を露にして目を細めた。そうして改めて神秘的な程に光り輝く司祭の姿を見つめた。低く優しく、しかし強く魂を捉えるような声を聞いた。この姿、この声には人の心を捕らえて離さない魅力があった。そんな司祭が語りかければ、民はいとも容易くその思想に染まり如何様にでも動いただろう。司祭がもしも現在皇帝の座に就いていたらと思うと、リシュアは空恐ろしくなった。同時に今このルナス正教が軍によって厳重に管理されている意味を初めて理解した。
 最後に、司祭は目を閉じて祈りの言葉を呟いた。
 「神と天女に祝福されし我々ルナスの民に幸あらんことを」
 
 満足げな表情で礼拝堂を後にする人々を見送り、リシュアは部下に撤収を命じた。そして先程まで異様な空気に包まれていた礼拝堂に降り立った。祭壇ではイアラが飾りに使われていた布を綺麗に畳んでいた。
 「良く見えたでしょ」
 イアラはにっこりと笑った。
 「ああ、良く見えた。……ところで司祭に伺いたいことがあるんだが」
 「いいわよ。まだこっちの控え室にいらっしゃるはずだから」
 畳んだ布を束ねて抱えたイアラが先を歩き出した。それを片手でひょいと持ち上げてやると、リシュアもその後を追った。
 「ありがと」
 「お安い御用だ。こういう仕事も全部一人でやってるのか?」
 「ここは私とロタしかいないわ。庭や建物の管理はロタが、屋内のことは私がやるのよ」
 意外な答えにリシュアは驚いた。
 「子供2人だけで管理してるのか!」
 その言葉にイアラは足を止めてリシュアをちょっと睨んだ。
 「……っと失礼。少なくともお前さんは一人前以上だな。しかしこの広さで2人じゃ大変だろう」
 素直に謝ったリシュアに彼女はすぐに機嫌を直したようだった。
 「司祭様も色々手伝って下さるし……ここだって実際に使う部屋は限られているから」
 イアラは立ち止まった。二人は控え室の前に着いていた。少女はドアをノックした。
 「司祭様。軍人さんがお会いしたいそうです」
 奥から「はい」と小さく声がした。イアラは振り返って頷くと、リシュアから布の束を受け取り廊下の向こうへと立ち去った。ドアの前にはリシュアが一人残された。そこで改めて礼拝堂での姿とその教えが脳裏に蘇り、リシュアは心が重くなった。
 ドアが開いた。
 先程と同じ姿の司祭がそこに立っていた。そしてそれを見つめるリシュアの表情は硬かった。相変わらず司祭は美しい。しかしいくら美しくとも、彼が忌み嫌う偏った教えを説いたその口、人々の心を操るその瞳。リシュアはそれらに嫌悪と恐れを抱かずにはいられなかった。
 一方司祭はいつもと変わらぬ様子でリシュアを冷たく見据えていた。礼拝堂で感じた程の威圧感はなかったものの、やはりどこか近付き難い印象があった。穏やかながらも、その表情は厳しかった。
 「どうぞお入りください」
 招かれるままに部屋の中へと足を踏み入れた。大きな棚が正面にあり、経典や燭台、香炉などのミサの道具が並べられている。あとは特に目立ったものはなく、実に簡素な控え室になっていた。グリーンのビロードのソファを勧められたリシュアは一礼して腰掛けた。司祭は少し離れた椅子に座り、警戒を隠さない表情でリシュアを見つめていた。
 「どうぞお話しください」
 許しを得て、リシュアは手短に昨日のパーティ会場で起きた事件について司祭に語った。
 「彼らはこの寺院の「お宝」が目当てだと言っていました。心当たりはありますか」
 司祭の表情は硬くなっていた。
 「いえ……」
 「始めは私も転売目的で金目のものを狙ったのだろうと思ったのですが、本当にそれだけでわざわざここを狙う意味があったのか……」
 司祭は答えずにじっと何かを考えていた。リシュアは司祭の言葉を待った。しかし沈黙だけが部屋に流れ続けた。
 「司祭様。我々にこの敷地内全てに立ち入る許可を頂けませんか」
 そう言って司祭の瞳を真っ直ぐに見つめた。
 「我々の事を信用できないのは分かります。ですが、安全を守るためにはお互いの協力が不可欠です」
 やはり答えはなかった。リシュアは苛立ちを抑えて説得を続けた。
 「もしも今後ああいう輩に狙われるとすると、かなりの危険が予想されます。あなたもあの子供達も……」
 そこまで言った時、司祭の表情が急に揺らいだ。
 「……あの子達に危険が及ぶのは避けなければ……」
 そしてしばらく考え込んだ後、意を決したようにリシュアに告げた。
 「分かりました。今を非常事態と見なし一時的にこの寺院全てに立ち入ることを許します」
 その言葉にようやくリシュアは安堵した。
 「ただし」
 司祭は続けた。
 「私的な敷地内での警備は全てロタの指示で行なって下さい」
 リシュアの脳裏にあの箒小僧の姿が鮮やかに蘇った。
 「……わ、分かりました。寛容なご判断感謝致します」
 にわかに頭痛を感じながらリシュアは引きつった笑みで司祭に礼を述べた。
                                                     

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