風が吹く前に 千石綾子 目次
<序>
遠くに見える細い雲が渦を巻き 勢いを増して流れ始めている
あの風は もうすぐここまで来るだろう
だから
今すぐに この花をあなたに届けよう
風が吹く前に
花が散ってしまう前に
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「カスロサ=リシュア中尉か……使えるのかね?」
黒光りする革の椅子を少し回転させて、男は部下を見遣った。男の名はグリムス=ヘイザー。ルナス帝国の陸軍元帥だ。年相応に薄くなった髪は綺麗に剃られ、丁寧に整えられた口髭には白髪が混じっている。
話しかけられた細身の男はドアに向けていた視線を声の主に戻した。心なし顔色が悪いようだ。ポケットから白いハンカチを取り出し、額の汗を拭った。彼の名はグルーオ=フォンス中将。現在は中央警察機構の総長を務めている。丁寧に撫で付けられた灰色の髪に色黒の肌、皺一つない軍服。一目で几帳面な性格だと見て取れた。
「少なくとも実戦経験と腕は確かな男です。南部統合前、前線に居た時分は危険を厭わず戦い、また運もありました」
「ふん、それが本当ならかなりの戦績を上げているはずだが……」
グリムスはメタリックのバインダーに綴じられた資料を捲りながら不機嫌そうな声で読み上げた。
「アーカン村潜入作戦、キーラ部隊救出作戦、ルイズ砦奪還……」
眉が上がり、手が止まった。緊張気味に立っていた男がそれに気づいて、デスクの方へ歩み寄った。
「そうです……彼はいつでも自ら過酷な条件の作戦に身を投じ、そして必ず生還しました。たとえ・・・隊が全滅しても。そのしぶとさから仲間からも「死神」の異名で呼ばれていたものです」
「死神か……面白い」
左程面白くもなさそうにそう言い捨て資料をデスクに置くと、せり出した腹の上で手を組んだ。趣味の悪い金の指輪が鈍く光る。
「で」
「その死神殿とやらはいつになったら現れるのかね?」
「あ、そ……その……」
中将はまた噴き出しはじめた汗を忙しく拭いながらドアの方を振り返った。
「奴はその、兵士としては有能なのですが……」
「時間にルーズなのが玉にキズなのよね」
腕を組んで上目遣いに軽く睨みながら女は口の端を上げた。
「欠点がないとホラ、イヤミってもんだろ?」
カスロサ=リシュアは軽やかな動きで彼女の肩に手をかけ、花束を渡しながら髪に軽くキスをした。緩やかに巻いたブルネットからは菫に似た香りがする。
「はいはい、いいから入って入って。チキンが冷めちゃうわ」
「いい匂いだ」
ご機嫌そうにベージュのコートを脱ぎながら部屋の中に入った。肩まで伸ばしたプラチナブロンドは柔らかなウエーブを描いて、色白で面長の顔をひときわ華やかに符縁取っている。部屋の明かりに目を細める。淡いグレーの瞳は一見冷淡に見えがちだが、垂れた目尻と長い睫毛が人懐こい印象を与えていた。
慣れた手つきでコート掛けに掛けると、嫌でも目に飛び込んで来るものがある。豪奢な細工を施したアンティークのカップボード。天板には象嵌で花や鳥が描かれ、ガラスには繊細なカットが刻まれている。いかにも新都心らしいオフホワイトを基調にした無機質なこの部屋の中で、ただこれだけがひときわ異彩を放っていた。
彼女に気取られぬようにリシュアはフン、と鼻を鳴らしてリビングを通り過ぎた。
旧市街の……貴族共の臭いのするものは嫌いだった。
食事はお世辞にも手の込んだものとは言えなかったが、味も彩りも十分な出来映えだった。大体此処へは食事をしに来た訳ではないのだ。このまま彼女の機嫌を損ねないように上手く盛り上げなくては。
彼女の名はキリイク=メイア。中央図書館の司書をしている。抑え目のメイクに地味な制服、そして無造作に束ねた髪のおかげで普段は余り目立たない存在だ。しかしリシュアは一目見てすぐ彼女の人並み外れた美しさを見抜いていた。その時から今まで地道に口説き続けて、ようやくこうして食事に招かれるようになったのだ。
持参したワインの話から始まり、彼女の好きそうな映画や絵画の話をし、彼女の著書を褒める。彼女は歴史と古典文学の論文をいくつか書き、受賞したものが出版されていた。リシュアも歴史には詳しい方だった。むしろ好きだったと言っても良い。
「三王国時代の女性作家を国ごとじゃなく民族ごとに分類したのも面白かったなあ。ええと……狩猟民族系と農耕民族系じゃ恋愛観も違うものなのかねえ?」
良い感じにワインも回って来た。話題をもう少し柔らかいものにしたいものだ。彼女はそれには答えずキャンドルの灯りにグラスを翳しながらにっこりと微笑んだ。
「そういえば今度新しい本のために研究を始めるのよ」
「ほえ…あー、それはいいね」
リシュアは思わず気の抜けた声を出し、すぐに慌てて笑顔を作った。
「ほら、私貴族の文化に興味があるじゃない。近いうちに法改正で簡単に旧市街に行けるようになるみたいなのよね。旧市街の図書館や博物館、今度一緒に行きましょうよ! ギレオス王朝から遡ってルナス正教のことを調べてみるのもいいかも。うまく貴族の方とお知り合いになれて、一緒に演劇を見に行ったりできたらステキなのにねえ……」
アルコールが回った彼女はいつもより饒舌だった。リシュアは急速に酔いが醒めていくのを感じていた。
旧市街の……貴族共の臭いのするものはとにかく嫌いなのだった。