風が吹く前に<序>2                                               目次

 

  ルナス帝国の首都キャビオラ。20年前のクーデターの後、軍によって作られた新興のこの街は一般には「新都心」の俗称で呼ばれることの方が多い。豪奢な造りを好む貴族の文化とは対照的に実用的でシンプルなデザインで統一されている。街は中心へ行くに従って背の高い建物が多くなり、その中央は一際巨大なビルが空に向かって伸びている。現在はここが軍の中枢であり、政治の中心にもなっている。さらにリシュアが配属されている中央警察機構もこのビルの中にあった。

 

 ルイズ=ミレイは向かい合っていたタイプライターから壁に掛けられた時計へと目を移した。針はもうすぐ12時を指すところだ。ふう、と短く息を吐き、手元の空いたマグカップを手に立ち上がった。やや煮詰まりかけたコーヒーを注ぎかけた時、廊下に通じるドアが大きく開けられた。
 「おはようございます中尉」
 そう言って爽やかに微笑みかけると、伏せてあったマグにコーヒーを注いで仏頂面のリシュアに手渡した。
 「厭味かねミレイ君」
 「あら、厭味を言われるような心当たりがあるんですか?」 
 紺のスーツに身を包んだ小柄な秘書は涼しい顔でデスクにつく。
 「……まあいいや。今日は何かあったかね」
 車のカギとコートを無造作にデスクに置きその横に腰掛けると、熱いコーヒーを一気に流し込んだ。
 「何かもなにも……今朝から何度も中将閣下からお電話が。また何かやったんですか?」
 「ジジイが? ……ああ! そうか、昨日だったな、そういえば」
 上司からの重要な呼び出しをすっぽかしたとは思えないような緊張感のなさで、リシュアはニヤニヤと笑って空になったマグをミレイに差し出した。
 「かなり怒ってましたよ、あれは。いい加減にしないともう減俸じゃ済まなくなりますよ」
 「なあに、今より悪くなる事なんかないさ」
 デスクに腰を下ろしたまま、電話の横に積まれたファイルに目を通し始めた。雑用係に近い彼の部署には様々な種類の書類が流れてくる。それを簡潔なメモ付きで分かり易く整理するのがミレイの仕事の一つだ。
 ミレイは秘書としてはかなり有能な部類に入るだろう。本来はもっと上の階級の仕官にでも仕えるべき人材と言える。多くの技能を身につけているのだが、何よりもその順応性を買われてこの厄介な上司の下に配属されてきたのだ。
 「とにかく早く支度して下さい。出勤したら中将のオフィスに来るようにって伝言頂いてますから」
 追い立てるようにリシュアを促し、デスクの上のコートをクローゼットに仕舞う。やや幼く見えるその顔立ちに似合わず、彼女はこうと言ったら絶対に引かない芯の強さを持っていた。逆らっても無駄なのは経験から良く分かっている。リシュアはやれやれ、と重い腰を上げた。
 

 エレベーターは昼食に出掛ける人々で混雑している。人ごみを避けてリシュアは階段で移動することにした。面倒臭がりな彼だが体を動かすことは嫌いではない。1段ずつ飛ばしながらで身軽に階段を駆け上がって行った。
 「いよう、死神将軍」
 誰もいないと思っていた所で突然声を掛けられ、驚いてリシュアは顔を上げた。
 「いようオクト。久しぶりだな」
 オクトと呼ばれたその青年は、色が白くやや小柄でどちらかと言うと女性的な外見をしていた。鳶色の瞳を輝かせ屈託のない笑顔で右手を差し出し、気のない顔をしたリシュアの手を力強く握った。
 「元気そうだな!」
 彼…ラフルズ=オクト少佐は誰に対してもこうして人懐こく真っ直ぐに接する男だ。そんな性格をたまに暑苦しく感じることもあるが、リシュアは概ねこの男が気に入っている。士官学校をトップクラスの成績で卒業し、優れた戦術で幾多の作戦を成功に導いてきたルナス帝国軍の期待のホープだ。 しかし彼自身はそんな事を全く鼻にかけるところがなく、内乱時は荒くれ者の傭兵達と古びた屋台で飲み明かすことも多かった。リシュアとはその頃からの長い付き合いになる。
 「中将閣下の呼び出しか?またなんかやらかしたな」
 いやに嬉しそうに覗き込んでくる顔をリシュアは恨めしそうに一瞥して肩を竦めて見せた。
 「いつものことさ。それよりそっちは忙しそうだな。発破かけられてきたのか?」
 「まあな。例の連続殺人犯に良い様にやられてるからなあ」
 オクトの目から笑みが消えた。
 「ああ、首刈りジョイスか。苦労してるみたいだな」
 内乱は終わったものの、新都心が発展するにつれて巷には猟奇的な事件や凶悪な犯罪が増えていった。オクトは主にそういった事件の捜査を担当する部署を総括している。マスコミへの対応なども含め、かなり頭を痛めているようだ。
 「お互い苦労が絶えんね。……まあ余り閣下を怒らせるなよ」
 軽くウインクをしてオクトは扉の向こうに消えていった。


  最上階の広いオフィスは階下のそれとは幾分趣が違っている。凝った装飾こそないが、大理石や毛足の長い絨毯、重厚な木製の扉などは旧市街の豪邸を思わせる造りだ。
 大きな扉の横に座った女性がリシュアの姿を認めてにっこりと微笑んだ。
 「あら、暫らく振りじゃない」
 読んでいた雑誌を閉じ眼鏡を外して立ち上がると、デスク越しにリシュアの頬に軽いキスで挨拶を交わした。
 「美女の後ろには怖いボスがいるからねえ」
 顔を近づけたままリシュアは口の端を上げた。
 「怖いボスが朝からお待ちですよ。早く行ったほうがいいんじゃないかしら?」
 促されて渋々奥へと続くドアをノックした。先程の美人秘書は電話でリシュアの来訪を告げているようだ。
 「入りたまえ」
 低い声で一言返事があった。ドアを開けて窓際に据え付けられたデスクに歩み寄ると、悪びれた風もなくにやけた顔でうやうやしく敬礼をする。
 「カスロサ=リシュア中尉只今参りました」
 デスクの男はジロリと睨めつけてから、小さく溜息をついた。
 「お前を見ていると怒る気も失せる……。まあいい。こっちへ来い」
 引き出しから封筒を取り出し、無言でリシュアに差し出した。こちらも無言で受け取って怪訝そうに中を覗き込んだ。
 「お前という奴は……本当に運の良い男だな」
 ぽかんとして見返すと、更に険しい顔つきになった中将が声を潜めて話し始めた。
 「いいか、これから話すことは正式に辞令が降りるまでは内密にするんだぞ……」


 

 「えっ?! カトラシャ寺院の警備ですか?!」
 ミレイの目が大きく見開かれ、白く透き通った肌が高潮して赤く染まった。カーボン製のトレイを胸に抱えたまま思わずデスクへ駆け寄った。
 「あー…まあ、なんだ。仮だ、仮の話」
 先程中将に手渡された資料に視線を落としながらリシュアは眉根を寄せている。背にした窓の外では既に日が傾き始めていた。年末に向けて着工される道路工事に伴いデスクの上に増えていく書類の山は一向に減る様子がない。しかしリシュアはそんなことにはお構いなしで、先ほどから浮かない顔でぶつぶつと何か呟いている。
 ミレイは何か言いたそうに暫く立ち尽くしていたが、ついに我慢できなくなってリシュアの手元を覗き込んだ。簡単な地図とタイムスケジュールのようなものがチラリと見えた。が、すぐにリシュアは秘書の前から資料を遠ざけた。
 「こらこら、機密だ機密」
  帰るや否や自分から漏らしておいて機密も何もないものだ。ミレイは口を尖らせて抗議した。
 「ここまで話しておいてそれはないじゃないですかぁ」
 それには答えず、意地の悪い笑みを見せて挑発するように彼女の目の前でわざと大仰な仕草で書類を封筒に仕舞った。
 「ここまで見せたら断りづらくなるだろうが。忘れろ忘れろ」
 しっしっ、と追いやるように手をヒラヒラさせて見せた。それを聞いてミレイは前のめりの姿勢のままでぽかんと口を開け、上司の顔をまじまじと見つめた。
 「え……まさか中尉…断るつもりなんですか?!」
 悲痛な声が飾り気のないオフィスに響いた。
 返答はない。
 面倒くさそうに目線を外してリシュアは彼女が先ほど運んできたコーヒーに口をつけた。その外した視線に割り込むようにミレイは体を屈めて回り込んで来た。
 「だってだって、寺院警備って言ったら絵に描いたような昇進コースじゃないですか! 中尉だってこんな退屈な部署は嫌だって言ってたじゃないですかぁー」
 上司が昇進となれば秘書も同じ恩恵を受けることになる。ひとごとではないのだから彼女だって必死になる。
 「しつこいよミレイ君。男はこうと決めたら揺るがないものなのだよ」
 芝居がかった言い回しでカップを持つ手を夕日に赤く染まった窓の方へと突き出した。二の句が告げずに立ち尽くす秘書の顔など目に入らないようだ。
 「それに……寺院なんて……」
 急に顔を曇らせる上司を見て、ミレイの脳裏に彼のこれまでの経歴が過ぎった。過酷な戦場で数え切れないほどの戦友を亡くしてきた孤独な兵士。そんな彼が寺院や宗教を嫌ったとしても不思議ではない。彼女は物言いたげに開かれていた口をつぐみ、ただ黙って視線を落とした。
 リシュアは両手を広げて大きく息を吐くと、大げさに首を振った。
 「寺院なんて……女っ気がなくてイヤだよねえ」
 「……一瞬でも同情しかけた自分が憎いです」
 おかしな空気の満ち満ちた部屋に、良いタイミングで内線電話が鳴った。渋い顔で受話器を取ったミレイの声が1トーン上がり、目が見開かれた。
 「ラフルズ少佐からです」
 もう微笑みに変わったその顔は少し紅潮していた。そんな秘書の様子には目もくれず、点滅する保留ボタンを押して電話を代わった。受話器の向こうからは珍しく緊張したようなオクトの声が返ってきた。
 「リシュア…すまないが今すぐビディラッサ橋まで来てくれないか。君の腕が必要だ」
 「また貸しだな。いいだろう」
 いつになく真剣そうなやりとりに顔を上げたミレイの目に映ったのは、上着を掴んでドアを出て行く上司の後ろ姿だった。

 

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