風が吹く前に <序> 4 目次
寺院へと続く門の前で警備をしていた兵士が2人の上官に向かって敬礼をした。オクトは小さくにこやかに「お疲れ」と声を掛け奥へ進んだ。無言のリシュアの顔は渋い。
古い煉瓦が敷き詰められた歩道の両側には、よく手入れされた芝生が広がっている。歩道の奥には白い花の咲いた緑のアーチが続き、そのさらに奥に高く塔のような石造りの寺院が黄昏の空に向かって聳えていた。
それは寺院と言うにはかなり異質なものに見えた。
アシンメトリーの建物の右側に螺旋状の塔が立ち、どことなくアンバランスなシルエットが見るものを不安にさせた。寺院を囲む高い鉄扉や石壁に開いた四角い穴は昔ここが砦として使われていたことを如実に物語っている。明らかに時代の違う左側の部分に煌びやかな装飾とステンドグラスの大窓がある以外はひどく簡素な建物と言えるだろう。広々とした庭園とは対照的に、どこか見るものを圧迫するような建物。リシュアは見上げながら眉根を寄せた。
「ちょっと話をつけてくるからここで待っててくれ」
オクトはそんな寺院の気配は全く気にならないようで、迷うことなくアーチの向こうへ姿を消した。リシュアはこの妙な息苦しさから逃れるように、煙草に火を付けると左手に広がる庭園の方へと歩みを進めた。
綺麗に刈り込まれた庭木と鮮やかな芝生の向こうに一際背の高い生垣。木戸が少し開いているようだ。なんとなく歩み寄って木戸の向こうを覗き見た。
オレンジ色に染まった果樹園が、目の前に広がっていた。生垣の向こうは外壁が崩れており、西から射し込む夕日が一面を照らしている。リシュアは眩しさに思わず目を細め、それからゆっくりと瞼を開いた。
次第に目が慣れてくると、奥に人影があるのが分かった。果実をたわわにつけた丈の低い柑橘畑の向こうに冬枯れの葡萄の棚が広がり、そのさらに奥には数本の林檎の木が立っている。逆光の中、その人物は籠を抱えて林檎をもいでいるようだった。聖職者が身につける白いローブが風に揺れ、腰の辺りまで伸ばした髪が西日に透かされて黄金の糸のように輝いていた。遠くて顔は良く分からないが、時折俯く横顔は人形のように整って見えた。
リシュアは一瞬言葉を失ってその人物を見つめた。
「ここは尼さんもいるのか……」
心の中で呟いた瞬間、その浮かれた気分をぶち壊すようなカン高い声が響き渡った。
「やいやいやいやいやい! なんだオマエ!」
振り向くと、目の前にはぶんぶんと振り回される竹箒の先があった。
「そこの芝生を踏み荒らしたのオマエだな?! ……あっ! それになんだその煙草は! ここは禁煙だぞ!!」
キンキンとわめき立てているのは10歳くらいの肌の黒い少年だった。大きめの白いシャツの袖をまくり、黒いズボンはサスペンダーで辛うじてずり落ちないように履いている。縮れた黒髪を短く刈り揃えていて、敵意をむき出しにした茶色の瞳は今にも火を放たんばかりだ。
「お前こそ何だ」
吐き出す煙と共に、しかめっ面でリシュアが返した。
意外な答えに威勢のいい少年は一瞬言葉に詰まった。
「おっ……おいらはここのお抱え庭師だ! 庭を荒らすヤツは容赦しないぞ!」
再び噛み付きそうな勢いで自分の倍はあろうかという相手に向かい箒を振り回した。全く届く様子もなく空回りする箒の先を無言で見下ろした後、まるで目に入らなかったかのようにリシュアはその脇を素通りして果樹園を後にした。
「逃げるのか! 二度と来るなよ臆病者!!」
完全に無視をして早足で遠ざかると、遥か後方でけたたましく響く声は小さくなっていく。リシュアは頭の中で先程の美しい横顔を反芻していた。
「尼さんがいるならいるって先に言えよな」
石畳に投げ捨てた煙草の火を爪先で消しながら少し緩んだ口元で小さく呟いた。
「ん? 何を言えって?」
寺院から戻ってきたオクトが、急にご機嫌になった友の様子を怪訝そうに見つめていた。
「んあ、いや、何でもないさ。そっちはどうだった?」
「司祭様は今お祈りで手が離せないとさ。でも礼拝堂を覗くくらいはいいそうだ」
「……いや、今日はやめておこう。そろそろ腹が減った」
あっさりと門を出ようとするリシュアをオクトはぽかんと見やる。
「今日は、って…後はないかもしれんぞ。折角来たのに……」
「警護することになれば嫌でも毎日見れるだろ」
振り返ってニヤリと笑う。
「楽して得する。いいんじゃないの?」
オクトは二の句が告げずに頭を掻きながら、足取り軽く石橋を下る友の背を見送った。