風が吹く前に <序> 6                                     目次 

 翌朝、なんとなく早起きしてしまったリシュアはいつもよりかなり長めにシャワーを浴びた。更に珍しく軽い朝食を取ってもまだ時間には十分な余裕があった。昨日小柄なメッセンジャーから言われた通り、リシュアは綿のシャツとパンツ、そしてざっくりと編まれたニットを身につけて家を出た。
 私服で仕事に行くというのはどうも気持ちの切り替えができず、複雑な気分だった。久しぶりに青空が眩しい晴天になったこともあり、このまま車で港の方へでも遠出したい衝動に駆られた。激しく葛藤しているところで先日見かけたあの美しい尼僧の横顔を思い出し、辛うじてハンドルを寺院の方へ向けることが出来た。



 リシュアのマンションからカトラシャ寺院までは30分かからなかった。晴れわたった空に一際高い寺院の影は魔物が住む怪しい塔のようだ。先日の事件の記憶も真新しい検問所を通りかかると制服を着た細身の青年が事務的にリシュアの身分証を確認した。あの初老の警備員はまだ療養中だろうか。それともあのまま辞めてしまったか。ぼんやりとそんな事を思いながら門をくぐった。
  腕時計を見ると、出勤時間には少し早かった。早めでも一向に構わないのだが、リシュアは寺院の中には入らずに先日覗いたあの果樹園へ足を運んだ。もちろん目当てはあの美しい尼僧だ。今日は木戸は閉まっていたが、軽く手で押すと鍵はかかっていなかった。
 期待を込めて中に入ると、まるであの時から動かなかったかのように彼女はそこに立っていた。あの日と同じ白いローブ姿で小さなブリキのジョーロを手に地面に水を撒いていた。良く見ると葡萄畑の隅に小さな花壇があった。日よけのためか今日はローブのフードを被っていて顔は良く見えなかった。
 驚かせないようにリシュアはゆっくりと尼僧に近付いた。それでもかすかな足音と気配で気が付いたのか、彼女はゆっくりと顔を上げこちらを見上げた。
 鼻筋が通った顔立ちに陶器のような白い肌。睫毛の長い切れ長の目は知性を感じさせる。想像以上の美しさだった。先日逆光で金色に見えた髪はこうして日の光の下で見るとやや暗い栗色をしていた。
 「どんな花が咲くんですか?」
 優しく問いかけると、一瞬驚いたような顔をした後に微笑んだ。春の光のような柔らかな笑み。
 「……白い小さな花です。ベルのような形で……とても可愛らしいですよ」
 意外とトーンの低い落ち着いた声はそれはそれで魅力的だった。
 「それは楽しみだな。いつ見られるのかな」
 リシュアは花壇の縁にしゃがんで柔らかな土から少し顔を覗かせている緑の新芽を見つめた。
 「3月の末には咲き始めます」
 そう言ってから尼僧はしげしげとリシュアの顔を見つめた。
 「失礼ですがお見かけしたことがありましたでしょうか。参拝の方ですか?」
 「ああ、これは名乗らずに失礼しました。私はカスロサ=リシュア中尉と申します。今度こちらの警備担当で赴任しました……」
 そう言いながら名刺を取り出し、再び彼女の顔を見てリシュアは硬直した。先刻の穏やかな笑顔の聖母の姿は見る影も無く、彼女は冷たく氷のような目つきで鋭くリシュアを睨みつけていた。
 「速やかにここから立ち去って下さい」
 「へ?」
 「軍の方はここへは立ち入らぬように再三申し上げているはずです。早く立ち去って下さい!」
 淡い菫色の瞳には怒りさえ感じられた。
 「すみません。知らなかったもので……」
 後じさりながら両手を胸の辺りで広げて悪意の無いことをなんとか知らせようと試みた。しかしリシュアの右足はうっかり葡萄棚の杭の横にあったバケツを蹴飛ばして、ガラガラと大きな音を立てた。
 「おおっと、いや、重ね重ね失礼を……」
 逃げるように立ち去ろうとしていたリシュアの前方に、音を聞きつけた先日の庭師の少年が現れた。
 「どうかしましたか……あっ! お前この間の!!」
 「ああ、また面倒な時に……」
 リシュアは片手で額を押さえた。状況がさらに悪くなるのは目に見えていた。
 「侵入者め! 懲りずにやってくるとはいい度胸だ! 今日こそ決着をつけてやる!!」
 少年は鼻息を荒くして、例の竹箒を手にのしのしと歩いてくる。
 「待て待て。誤解だ誤解!」
 「ロタ、待ちなさい」
 リシュアと尼僧が同時に制止した。
 「いいや待ちません。どうぞ下がってて下さい司祭様。こいつはおいらが……」
 少年の言葉にリシュアの動きが止まった。
 「なんだって?」
 「お前はおいらがやっつけると言ったんだ!」
 「いや、そうじゃなくて……」
 「ロタ、いけません!」
 「でも司祭様!!」
 喧騒の後、一瞬静かになった。
 「ちょ、ちょっと待て」
 頭を押さえたままでリシュアは唸るように言った。
 「……誰が司祭様だって?」
 完全に頭が混乱していた。現実を認めたくないせいなのかもしれない。悪い夢を見ているような気分だった。
 「そちらにいるのが司祭様だ! 頭が高いぞこの小悪党!」
 止めを刺されて、リシュアは頭を殴られたような衝撃を感じた。
 「やめなさいロタ。……私がここの司祭です。とにかくあなたがここを出れば今日は不問と致します。今日はもういいですからお引取りください。」
 もはや司祭の顔には何の感情も見えず、氷のような声が冷たく言い放った。リシュアは何も言い返すことが出来ず、眩暈を感じる頭を抱えながらよろよろとこの場を立ち去るしかなかった。

  風が吹く前に<序>  完

 

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