風が吹く前に <序> 5                                     目次

  寺院警護の前任者は既に欠員が出ていたらしく、翌日には辞令が下り着任の手続きも3日で終えた。
 「随分と慌しいんですね。引継ぎとか、どうなってるんですか?」
 ミレイは少し眉根を寄せて、リシュアがサインし終えた書類を手早く仕分けながら仕舞っていく。
 「さあな……まあ、行けばなんとかなるだろ。こっちの仕事は兼任させられるから幸か不幸か引継ぎもないしな」
 「幸の訳がないじゃないですか」
 眉間の皺を一層深くしてミレイは口を尖らせた。
 「折角寺院に行けると思ったのに……どうして私は居残りなんですかっ!」
 「ま、まあミレイ君落ち着きたまえ。元々ここの仕事は8割君がこなしていたようなものじゃないか。君の仕事ぶりが評価されてるってことだろう」
 よく分からない根拠を並べて必死でなだめると、ミレイは少し落ち着きを取り戻したようだ。再び事務的な顔に戻って、上司が溜めこんでいた書類の山をてきぱきと整理している。
 兼任するとはいえ、暫くこちらは留守がちになるだろう。せめて週末が期限になっている仕事くらいは片付けてもらわなければ。
 「しかしなんで皆あんな辛気臭い寺院に行きたがるのかさっぱり分からんよ。ここは便利だし清潔で快適だろうに」
 リシュアは書類の中身も見ずに頬杖をつきながらただ機械的にサインを書き続けた。内容は全てミレイが処理済みだ。
 「分からないのは中尉の方です。みんなあの寺院や旧市街に憧れているんですよ! ……そりゃあここのモールは便利ですけど」
 両手に持ったファイルを胸に抱き、壁に掛かったカレンダーに目をやった。残り1枚になった煉瓦造りの旧市街を撮ったカレンダー。リシュアの反対を押し切ってミレイが飾ったものだ。
 「石造りの歴史ある街並み……由緒あるカトラシャ寺院……司祭さまは世が世なら皇帝だった方ですよ。ロマンティックじゃないですか」
 「世が世じゃないから今はただのボウズなんだ。石に苔が生えれば有難いっていうなら加齢臭のきついオヤジとエレベーターが一緒になった位で泣き言言うな」
 いつもの愚痴に突っ込まれる形になったミレイはしかめっ面をして、べぇ、と舌を出して見せた。
 なんでこうも俺の周りには貴族好きが多いんだ。リシュアは心の中で舌打ちして、冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
 「さて、ちょっとランチに出てくる。少し遅くなるかもな」
 「はいはい。デートでしたね。どうぞごゆっくり」

 

 早めにオフィスを出たせいか、廊下はまだ人通りが少なかった。向こうからやってくる事務のバイトらしき若い女性のグループがリシュアの姿を見つけ、小声で何か話しながらこちらを見ていた。隣の黒髪の子に肘で突つかれたショートのブロンドの子が胸の前あたりまで小さく手を上げて首を傾けた。
 「中尉、こんにちは!」
 「やあ、レノ君」
 周りの子は興味津々で2人のやりとりを遠巻きに見つめていた。
 「この前はごちそうさまでした」
 「いや、こちらこそ楽しかったよ。なかなかああいう店へは行く機会がなかったからね」
 そこで一呼吸いれて、彼女は上目遣いに中尉の顔を見上げながら尋ねた。
 「あの…またお誘いしてもいいですか?」
 「ああ、喜んで」
 そこで一斉に周りはキャーと歓声をあげた。
 「いいなレノ」
 「中尉、私ドライブ行きたいですー」
 「えー、じゃあ私は遊園地に……」
 「私も、私も!」
 彼女達は急に距離を縮めてきて、リシュアは押されんばかりの勢いだ。
 「嬉しいね。じゃあこれ。いつでも電話してくれていいよ」
 オフィスの内線番号のかかれた名刺を配った。ミレイが受ける代表番号とは違う彼のデスク直通の電話番号。どうやら仕事用の名刺ではないようだ。
 彼は上司や秘書にとっては頭の痛い存在だが、女性達には驚くほどに人気があった。確かに彼は長身で整った顔立ちをしている。動く度に緩く束ねたプラチナブロンドが揺れる姿は嫌でも目を引く。更に女性に関してはとにかくマメで優しいのだから、これでもてない方がおかしいと言えるかも知れない。
 エレベーターを出て受付の前を通ると、今度は長く美しい黒髪をアップにした受付嬢が意味ありげにリシュアに視線を送った。リシュアはにっこりと笑顔を返した。
 「私服なんかに着替えちゃって……ランチデートかしら。今日はどこの美女?」
 「どこのだって君程じゃあないさ」
 差し出された手を軽く握ってウインクをした。
 「ありがと。……ねえ、週末は空いてるかしら」
 彼女は軽く頬杖をついてにっこりと微笑んだ。
 「んー…。なんとかするよ」
 「じゃ、9時にウチでね」
 白い手袋に小さく手を振られてエントランスを後にした。

 

 約束のカフェまでは歩いて10分もかからなかった。焼きたてのパンの香りが漂う白い壁には輝く緑の蔦が伸び、無機質な新都心の中でそこだけが華やいで見える。入り口にあるオープンテラスはこの季節さすがにがらんとしていた。ただ一人白い子犬を連れた老婦人が、ちょっと一休みという具合に白い椅子に腰掛けていた。
 少し混み始めた店内に入ると、メイアは既に奥のテーブルに座っていた。彼女は何か分厚い本に目を落としており、リシュアの到着に気付いていない。お盆を持って忙しく走るウエイトレスにぶつからないよう、良く磨かれた木の床をゆっくり進んだ。
 赤い煉瓦と白い漆喰の壁、太い木の柱が店内の雰囲気をとても暖かいものにしている。いかにもメイアが好みそうな造りだ。そっと向かいに座ると、ようやく気付いた彼女が顔を上げて笑顔を見せた。
 「ごめん。待たせちゃったかな」
 「ああ、違うの、いいのよ。インイッサのアンティーク飾りを買うのに早めに出ただけだから」
 銀縁の眼鏡を外してバッグに仕舞う。それ一つで顔の印象が大きく変わった。琥珀色の瞳の輝きが一段と増し、思わず一瞬見とれてしまった。
 「なら良かった。なにかいいものは見つかったのかな?」
 ウェイターが運んできたメニューを受け取りながら尋ねると、彼女は先程まで読んでいた皮の表紙の古書を指差して苦笑いした。アンティークの飾りは重たい本に化けたらしい。
 「なるほどね。何にしても素敵な出会いがあったようで何よりだよ。……しかし古そうな本だね」
 「イリジア朝時代のカトラシャ寺院の石積みについて書かれた建築関係の本よ。掘り出し物だわ」
 飲みかけた水を噴き出しそうになり、思わずむせる。
 「だ、大丈夫?」
 「あ、ああ、ごめん。ええと……ちょっとびっくりして」
 彼女は不思議そうにこちらを見ていた。
 「あー、今度新しい任務に就くことになってね。それがその……カトラシャ寺院だったものだから」
 「まあ……!」 
 メイアの目が大きく見開かれた。もうこの際だ。折角のこの人事を最大限に利用させてもらうことにしよう。リシュアはそう心に決めて、にっこりと笑った。
 「落ち着いたら君を寺院に連れて行ってあげられると思うよ」
 「本当に?すごい!夢みたい……」
 貴族と一部の旧市街の住民にしか参拝が許されていないカトラシャ寺院は新都心の研究者には憧れの的だ。先程の掘り出し物と嬉しい約束のおかげで彼女の頭はもう寺院のことでいっぱいになっているようだ。映画や彼女の仕事の話を交えながらも、嫌でも話題は寺院や旧市街のことになる。それでも気持ちを切り替えたせいか、リシュアはもうそんなことは苦にならなくなっていた。先日のあの苦い夜などなかったかのように二人の会話は盛り上がり、予定よりもかなり長めのランチを楽しむことが出来た。

 

 店を出た時には時計はもう午後の2時を回っていた。それでも急ぐことなく悠然とオフィスへと戻ってきたリシュアは、当然ながらひどく上機嫌だった。しかしオフィスから廊下まで聞こえてくる談笑の声に、一瞬ドアノブにかけた手を止めた。
 怪訝な顔で入ってきたリシュアの姿に、慌てて椅子から立ち上がって敬礼をしたのはまだ少年のような顔立ちをした二等兵だった。
 「お留守中、お邪魔しておりました中尉殿!」
 緊張で全身が硬直し、慣れていないらしくまだ敬礼もぎこちなかった。
 「ブランク=ユニー二等兵であります! 中尉の寺院ご赴任に際しまして中将閣下からご伝言をお預かり致し、ご挨拶を兼ねて参りました!」
 無駄に大きな声が耳障りだったのか、リシュアは少し眉を顰めた。
 「そんなもの、わざわざ来んでも署内メールでよかろうに……。まあいい。来たものは仕方ない。いいから座れ」
 「は、はいっ!」
 「いちいち大きな声を出すな」
 うんざりしたように歩み寄ると、薄いパネルで仕切られただけの小さな応接ブースのソファに腰掛けた。少年兵は今度は小さく「すみません」と呟いて勢い良くソファに座った。合皮のシートが擦れる大きな音がして一瞬腰を浮かせ、バツが悪そうに引きつった笑みを向けた。
 リシュアはため息をついた。
 「で、ジジイが何だって?」
 「あの、こ、これを……」
 持っていた茶封筒を差し出した。
 「警備のスケジュールやシフト、それから我々部下の資料が入っております。必ずご一読下さいとのことでした」
 ユニーはやや前のめりの姿勢で上官の手元をじっと見つめている。仕方なく封筒から書類を出して目を通す振りをするリシュア。
 「それと……時間帯によっては強風で橋が通行止めになりますので、出勤時間はお守り下さいとの事です」
 痛いところを突かれて、リシュアの顔はますます渋くなった。
 「それから……」
 「何だ、まだあるのか!」
 さすがにうんざりしたようで、リシュアは茶封筒をテーブルに放り投げた。
 「すみません!あの、寺院へは私服で行くのが決まりになっていますので……。それだけです。あとは何もありません」
 小柄な体を更に縮めて細い声でなんとか絞り出すと立ち上がって深く一礼し、逃げるようにオフィスを後にした。その一部始終を自分のデスクから眺めていたミレイは同情するように来訪者が去った後のドアを見やってため息をついた。
 「あーあ、泣きそうになってたじゃないですか可哀想に……」
 「知るか。あんなガキを部下に付けられる俺の方が余程可哀想だ」
 「大体愛想が無さ過ぎなんです中尉は。女の人以外には本当に容赦ないんですから」
 母親のような口調で言われるのは面白くないが、もはや反論する気力も失せていた。
 「さ、とっとと続きをやるぞ。早く片付けて俺は帰る」
 いつもそうしていればこんなに仕事を溜め込まずに済むのに、とミレイは思ったが敢えて口には出さなかった。 

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