風が吹く前に 第3部 (16)                       目次

 押し殺したような声になっているのは、緊張のせいだろうか。それとも無意識に盗聴などを警戒しているのか。
 普段と違うアンビカの様子に司祭も何かを感じ取ったようだ。
 紅茶を淹れようとしていた手を止め、アンビカと向かい合うように静かにソファに腰を下ろした。
 「伺いましょう」
 それでも司祭の声は普段と変わらずに穏やかで柔らかい。顔には笑みさえ浮かべている。
 恐らくこの皇子はこれから聞かされる話の重大さにまだ気づいていないのだろう。アンビカは話を聞いた後の反応を想像してみる。
 まず驚き、争いになることを嘆くだろうか。それとも荷の重さに耐えられず拒絶するだろうか。それどころか驚きのあまり錯乱するかもしれない。アンビカの手は緊張の汗に濡れていた。
 
 
 一方その頃リシュアは、またもや急な呼び出しでグルーオ中将の部屋にいた。
 中将のデスクの前には椅子が準備されており、問答無用でそこへ座らされた。もちろんそんな事で恐縮するような男ではない。足を組んだまま踏ん反り返った状態で壁に貼られた南部戦線の勢力図を珍しそうに眺めている。
 「こりゃあ、いよいよヤバそうですねぇ。どこぞに和平交渉でも頼んでみたらどうですか?」
 他人事のような気楽さで揶揄する問題児をじろりと睨み、中将は部屋の入口へ行く。そして無言のままドアに施錠した。
 背後に響く冷たい金属音に、さすがのリシュアも笑顔を固まらせた。逃げ場のない密室、もちろん武器は部屋の入口の秘書に預けてある。そしてこの上司は邪魔な人間を消すことに抵抗のない男……いや、これは軍そのものの体質というべきか。
 身内のいない士官ひとりくらい消えても新聞の片隅に載ることもなく揉み消されるだろう。
 しかし、そんな心配をよそに中将はリシュアの横を通り過ぎ、デスクの横に立つと軽く睨みつけただけだった。
 
 「その地図の事も含めて、今後この部屋で見聞きした事は一切口外するな。……こんなことは常識だが念のために釘を刺しておくぞ」
 今度ばかりはリシュアも黙って頷くしかなかった。表情は不服そのものではあったが。
 「例のパレードのコースが決定した。だが保安上の問題でこれはごく一部の責任者にしかまだ伝えられない。その意味を良く考えて行動しろ」
 つまり、リシュアがうっかり口外した情報からテロ行為などが起き多大な市民の命を危険にさらす可能性が大きい、という事だ。
 もちろん彼もそのくらいの事は先刻承知だ。
 「いくら俺でも市民や仲間を売るような事はしませんよ」
 不貞腐れた様子のリシュアを見て、中将も少しは安心したらしい。大きく息を吐き表情を和らげると、デスクの引き出しからファイルを取り出してリシュアに手渡した。
 
 「それが当日のコースだ。しっかりと頭に叩き込んでおけ。だが下見に行くような間抜けなことはするなよ」
 分厚い資料の一番上に畳まれていた地図を半分程広げ、リシュアは赤い線でなぞられた街道を目で追う。
 パレードに使われるだけあって、コースは主要な大通りがほとんどだ。心配性の上司が言うような下見などはなから必要もないだろう。
 そんな事を思いながら畳まれた残りの部分を広げ、その赤い線の先を見たリシュアの目が大きく見開かれた。
 その線は新都心の郊外へと延びており、旧市街との境にある一点には丸で囲まれた地点があった。
 「……カトラシャ寺院……」
 呆然と呟くリシュアに鋭い視線を向け、中将は頷く。
 「そうだ。カトラシャ寺院だ」
 しかし中将はそれ以上何も答えない。痺れを切らしたリシュアが口を開く。
 「ですが司祭様は……」
 「カスロサ中尉」
 抗議するようなリシュアの口調に反して、中将の言葉は極めて事務的で冷やかだった。
 「先帝が崩御されて20年だ。軍の代表者が献花をしに行くのはそんなにおかしいかね?」
 
 リシュアはこの時初めて自分がこの上司を甘く見ていた事を思い知らされた。
 自分は捨て駒にされるのだ。彼にとってはいい厄介払いだろう。
 何が目的かは知らないが彼らは旧市街の、貴族達の、そして皇家の最後の砦であるあの寺院を貶めるつもりなのだ。
 パレードとは名ばかりの軍の行進で彼らの誇りを蹂躙する。そしてその責任を負わされて自分はお払い箱になるという訳だ。
 まんまとしてやられたというのに、何故かリシュアは腹も立たなかった。ただ、己の平和ボケした警戒心のなさを笑いたい。それ程に情けない気分だった。
 その後、呆然としたまま資料を返して中将といくつかのやりとりをして部屋を後にしたが、話した内容はほとんど頭には入っていなかった。
 
  
 
 「単刀直入に申し上げます。元老院をはじめとする貴族、そして旧市街の人々の多くが、フィルアニカ様の1日も早い皇位継承を望んでおります。新たな皇帝陛下として、どうぞ我々ルナスの民を導いて下さいませ」
 一気にそこまで言って、そのまま深く頭を下げた。自分でも驚くほどに声が震えて顔を上げることができない。司祭と目を合わせるのが、いやその表情を見ることさえ怖かったのだ。
 司祭が怖いのではない。自分の一言で、今はっきりと何かが動き出した。何か後戻りのできない選択のスイッチを押したという感覚が彼女を総毛立たせていた。
 「現在の内乱に至る軍中枢の不手際。その後の対応の未熟さに皆が不満を募らせております。今こそどうぞ我らをお救い下さい」
 沈黙を押し流すようにアンビカは言葉を継いだ。無論顔は下を向いたままだ。
 すると、彼女の耳に何か一瞬微かな音が届いた。
 「?!」
 思わず顔を上げると、やや困惑したような笑顔を湛えた司祭が自分を優しい目で見つめていた。
 間違いなかった。彼女が聞いたのは、司祭の微かな笑い声だったのだ。
 「ああ、すみません。失礼しました。その……お気を悪くされましたか?」
 「い、いえ……」
 実際は怒るどころか『この人頭おかしいのかしら』とまで思ったアンビカだったが、さすがにそれを言う訳にもいかない。恐縮している司祭をただ怪訝そうに見返すだけだった。
 「真面目なお話の途中で申し訳ありませんでした。……あの、なんだかアンビカさんらしくない、いえ、その、随分と儀礼的な、と申しますか……」
 必死で取り繕う姿は、ミサの時に感じるような神々しい偉大な存在とは余りにもかけ離れている。思わずアンビカも吹き出してしまった。
 それを合図に、二人はくすくすと声を殺して笑い合い、自然と互いの緊張も緩んでいった。
 
 「私もいつかこのお話を頂くのではないかと感じていました。元老院の方がそうお決めになられたのでしたら、私も自分の務めを果たすまでです。お父上にもそうお伝えください。ただ……」
 ずっと以前から司祭は心を決めていたのだろう。見せかけの平和な生活に慣らされて心まで飼い殺しにされているのだろうと思い込んでいた自分をアンビカは恥じた。
 そして珍しく交換条件を言いかけている司祭の言葉に耳を傾ける。
 
 「ただ、子供達は……。今寺院にいるあの子達に危険が及ぶことだけは避けてください。ここが危険になった時、どこか安心して幸せに暮らせる場所に引き取って頂けるように今から手配をお願い致します」
 凛とした瞳がアンビカを見つめる。口調は柔らかいが是非を言わせぬ強さと威厳がそこにはあった。アンビカは今度こそ目を逸らすことなく強く頷いて見せた。
 司祭は安心したように微笑んでから立ち上がり、再び紅茶の準備を始めた。
 「では詳しい事はまた後日という事になりますね。何かこうしてお話することができた時はイアラにお声を掛けてください。すぐにここへお通しするように伝えておきます」
 「ええ。ご配慮ありがとうございます」
 ふとアンビカは自分が自然に笑みを浮かべていることに驚く。貴族同士の付き合いなど終始腹の探り合いだ。幼いころから見よう見まねで覚えた愛想笑いがいつしか自然に顔に貼り付いている。
 しかし、今の自分の笑みは違う。唯一心を許せるマニだけに見せる、そんな笑顔。互いに大きな秘密を共有したからなのか、それともこれが司祭の魅力のなせる業なのか。
 ともかく、少なくともこの貴人のために多少の犠牲を払っても惜しくはない。この会話の中でアンビカははっきりとそれを確信した。
 
 「どうぞ。お口に合うと良いのですが……」
 遠慮がちに紅茶が差し出される。礼を言って手にしたカップの中には初めて見るような黄金色の液体が満たされていた。
 「先日珍しい紅茶を頂いたので、今日はそれを淹れてみたのですが……」
 司祭に贈られるくらいなのだから、かなり貴重なものに違いない。しかし当の司祭は普段通りの自信なさげな笑顔で小首を傾げこちらを見守っている。
 「そのような貴重なものを……有難うございます」
 カップを口元に運ぶと、確かにその色味に似合う爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
 「まるで草原のような香り……」
 そう言いかけて、言葉と笑顔が一瞬固まった。
 大きく吸い込んだお茶の香気に混じって、先程も感じたあの香りがしたのだ。ソファにしみ込んだ、リシュアの香水の香り。
 「……あの……?」
その声にはっとして顔を上げると、司祭が不安げにこちらを見つめていた。
 「お気に召さないようでしたら、すぐにいつものお茶を……」
 気遣うような司祭の言葉に、アンビカは慌てて首を振る。
 「いえっ、違うんです。ちょっと懐かしい香りに感じたものですから……」
 嘘ではない。嘘ではないが、彼女の心にまた暗い影が差す。
 自分とリシュアはもう許嫁ではない。それに彼も任務の一環でここに来たとも考えられる。頭では分かっている。分かっているのに彼女の心のざわめきは一向に収まらなかった。
 再び司祭に目をやると、今度はほっとしたような笑みを湛えてこちらを見ている。どうにもいたたまれない気分だった。
 アンビカは早くこの場をから立ち去りたい一心で、まだ熱い紅茶を一気に飲み干した。
 「ご、ご馳走様でした!」
 案の定、司祭は驚いて目をしばたたかせている。そしてアンビカのとってつけたような言い訳。
 「あの、喉が渇いていましたもので……」
 「そ、そうだったのですか。もっと早くお持ちすれば良かったですね」
 再び二人の会話はぎこちなくなり、挨拶もそこそこにアンビカは逃げるように部屋を辞した。
 司祭も慌てて立ち上がり、公共部分の廊下のところまで見送り首を傾げる。
 「やはりいつもの茶葉にすれば良かったでしょうか……」
 
 
 「あああ、もうっ!!」
 庭まで出て、誰もいないことを確認してからアンビカは踵で思い切り石畳を蹴った。しかし悪い事は重なるもので、一瞬バランスを崩してよろけ、軸足の足首を捻ってしまった。
 「痛ぁ……っ」
 腹立たしいやら悔しいやら。更に情けなくもなってアンビカはそのまましゃがみこんでしまった。
 この苛立ちをどこにぶつければいいというのだろう。
 
 「おいおい、大丈夫か?」
 ふいに呑気な声が降ってくる。見上げるとそこには予想通り緊張感のない顔で突っ立っているリシュアの姿があった。
 「うるさいわねっ!」
 勢いよく立ち上がり腕を振ると、手にしたバッグがリシュアの側頭部に見事命中した。そう、アンビカにとっては怒りの矛先を向ける相手が都合よく現れたという訳だ。
 「でぇ……っ!!!」
 小さいが頑丈な革製のバッグの角が直撃したのだからたまらない。リシュアは両手で頭を押さえてのけ反った。
 「い、いきなり何だよっ!!!」
 その抗議の言葉は至極正当である。しかしアンビカは全く悪びれる様子もなく、むしろ畳みかけるように言葉を継ぐ。
 「舌は火傷するし、足は捻るし。どうしてくれるのよっ!!」
 その形相と勢いにリシュアは思わず――。
 「え、あ、悪い……」
 謝ってからはっとしたが、既にアンビカの姿は門の向こうに遠ざかっていた。
 「って、俺のせいかよ?!」
 訳も分からないまま誰もいなくなった庭園でそう言い捨てるのが精いっぱいだった。
 

 

 

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