風が吹く前に 第1部 (2)                       目次

 
 塔を回りこむように伸びた細い渡り廊下を抜けると、いきなり大きな広間に出た。古い石積みの壁に赤いタペストリーが掛けられ、仄かな部屋の灯りがそれを暗く照らしていた。時代を感じさせるそのタペストリーは太い金糸で縁取られ、銀糸で中央に大きく紋章が描かれている。今は権威を失ったルナス帝国皇帝の紋章だ。
 「司祭様は世が世なら皇帝になった方ですよ。ロマンティックじゃないですか」
 いつだったか秘書が漏らした言葉をリシュアは思い返した。しかし目立った装飾はそれくらいで、目の前に広がる殺風景な広間はお世辞にもロマンティックとは言い難い気がした。
 広間の左側の壁には見上げる程の大きな木の扉があった。
 「我々が入れるのはここまでです」
 花瓶の横にある電話の受話器を上げながらビュッカは上司に説明する。やけに古風な電話の金の釦を押すと、扉の奥の方でジリリ、とベルの音がした。
 「アルバス伍長です司祭様。恐れ入りますが先程の一件につきましてご報告に参りました」
 数分後、重い音を立てて大きな木の扉の片側だけが開き、紫紺のローブを羽織った司祭が現れた。
 「ご苦労様です」
 司祭のよく通る声が静かに広間に響いた。手にしたランタンの光が司祭の色白の顔をゆらゆらと照らしている。するとそれまで冷たく殺伐としていた部屋が、急に華やいだようにリシュアには感じられた。
 思わず見とれて言葉を失い、がらんとした広間に沈黙が続いた。部下が指示を待つようにこちらを見ているのに気付き、リシュアはようやく我に返る。
 「あ、あの。お騒がせして申し訳ありません。何度か部下の方から連絡をさせて頂いたようですが……」
 その声でようやくもう一人の存在に気付き、司祭はランタンを軽く掲げた。あの日の無礼な侵入者の姿を認めて美しい顔が僅かに曇る。そんな様子を見逃さず、リシュアは少し胸が痛むのを感じた。
 「いつぞやは失礼しました。改めまして、主任のカスロサ中尉です」 
 心を込めて恭しく頭を下げた。
 「再度確認を致しましたが不振なものはその後確認できませんでした。今日はもう大丈夫かと思われますが、尚引き続き注意して警備致します」
 「そうですか。では家のものにもそう伝えておきます」
 素っ気無く立ち去ろうとする司祭の背に、リシュアはつい声を掛けた。
 「あ、あの……!」
 「……はい?」
 怪訝そうに僅かに振り向いた横顔の美しさにリシュアは思わずどきりとする。
 「念のため今夜は私も泊り込みますので……」
 リシュアは自分が発した言葉に自分で驚いていた。言われた司祭も少し戸惑っているように見えた。しかしそれは一瞬だけのことだった。
 「……そうですか」
 緊張が一気に解けたリシュアははあ、と息を吐いてがっくりと肩を落とした。
  

 当直のムファとリシュアを残して部下達は帰路に就いた。時計は深夜をとうに回っている。ムファは読書を中断して巡回へ出ていた。リシュアは当直用のベッドに横たわり、浮かない顔でぼんやりと天井を眺めた。ベッドは小さいが適度に柔らかく清潔だ。少し眠ろう思ったが、どうにも胸のもやもやが晴れない。
 「なんで泊まるなんて言っちまったんだ……」
 急な呼び出しでデートは台無しになってしまった。しかしあの時間ならまだ花でも届けて御機嫌を直してもらうことも出来たはずだ。この自分が恋愛よりも仕事を優先させるとは……。
 そんな考えとは裏腹に、ずっと司祭の横顔が頭から離れない。先刻薄明かりの中で振り向いた冷たい横顔。そして初めて中庭で見た穏やかな横顔。同じ人物とは思えない印象……しかしどちらも美しかった。
 彼には美術品を愛でる趣味はないが、何時間も同じ絵の前に立つ人々の気持ちとはこういうものだろうとリシュアは思った。
 ドアが静かに開いた。
 「異常ありません」
 ムファが戻ってきた。
 「俺が起きているから、少し休め」
 リシュアは起き上がって伸びをした。今夜はもう眠れそうにない。ムファは素直にはい、と頷くと代わりにベッドに横たわった。
 程無く寝息が聞こえてきた。どうやら今日はこのまま何事もなく終わりそうだ。
 新鮮な空気が吸いたくなり、リシュアは部屋を出た。外は月(リュレイ)が細く輝き、正面の庭を薄暗く照らしていた。冷たく湿った空気がリシュアの髪を揺らして通り過ぎる。煙草に火を付け深く吸い込むと、煙と共に大きく息を吐いた。頭が冴え冴えとしてくるのを感じて、リシュアは目を閉じ五感を澄ませた。
 月(リュレイ)の灯りの下ではこの寺院のもの全てが昼間のそれとは全く違って見える気がした。壁の石のひとつひとつに命が宿っているような、そしてそれらにじっと見られているような気分。
 「おかしなことになったもんだ……」
 そう心の中で呟いた時、どこからかかすかに声が聞こえてきた。歌声、のようだった。リシュアは声の主を探して上を見上げた。しかし見上げる前から声の主は分かっていた。
 「……司祭か……」
 姿は見えなかったが、塔の中程の小窓が開いており、声はそこから聞こえていた。リシュアは煙草を消すと慌てて身を隠した。なんとなく、ここに居る事を知られたくなかった。
 少し掠れたようなとても小さな声は聞いたことのない言葉を不思議な旋律で紡いでいた。どこか異国の歌なのだろうか。しばらく黙ってリシュアは聴き入っていた。するとどこからともなく夜霧が現れ、辺りに漂い始めた。歌声に呼ばれた生き物のように霧はどんどんと濃くなり、建物をそして庭を覆い尽くした。辺りにあるのは霧と歌声だけ。そう感じられる不思議な光景だった。
 絵本の中に取り残されたようだとリシュアは思った。灌木の奥の隅っこに膝を立てて座り込みながら、全身で不思議なメロディに心を委ねるリシュアもいつしか霧に包まれていた。
 普通の人なら怯えても良さそうな突然の出来事。しかしリシュアはやけに幸せそうににやけた顔で目を閉じ呟いた。
 「こういうのって、なんかこう……ロマンティックじゃないの?」
                                                     

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