風が吹く前に 第1部 (4)                       目次 

 

 その日の夜、リシュアは新都市郊外のホテルのパーティ会場に居た。新都心では月に1度、貴族と軍関係者の親睦を目的とした夜会が開かれている。今日リシュアが呼ばれたのはゲストとして特別のことだった。カトラシャ寺院の新しい警備主任のお披露目だ。
 軍服の胸に重そうな勲章をずらりと並べた中将が、胸まである見事な髭を蓄えた子爵と上機嫌で談笑している。その傍らでやや退屈気味なリシュアは、ボーイを呼び止めてトレイのグラスを手に取った。
 彼も今日は珍しく軍服姿だ。髪もきつめに結んでしっかり撫で付けられており、いつもとは別人のようだった。グラスに口を付けようとしたその目線の先に、ある人物の姿を認めてリシュアは思わず手を止めた。
 ドレープが美しいシルクのドレスを身に纏った赤毛の女性だ。かなり遅れての到着だというのに、慌てる様子もなく悠然と歩くその様子は実に優雅だった。リシュアはグラスを傍らのテーブルに置いてその女性に歩み寄った。彼女は入り口付近で知人らしき男性と挨拶を交わしていて近付くリシュアには気付いていない。
 「……アンビカ?」
 呼ばれて初めて彼女は自分の背後に立つ長身の青年に目をやった。その声には聞き覚えがある。
 「リシュア……? あなた……生きてたの?!」
 幽霊でも見たかのような顔を向けられて、リシュアは苦笑いした。
 「おいおい、ご挨拶だな」
 さらに大げさに両手を広げて肩を竦めて見せると言葉を続けた。
 「久しぶりに会ったってのにそりゃあないだろ。こう、「会いたかった!」とか抱きついて来るとかさー…」
 言葉が終わるか終わらないかのところでリシュアの顔に彼女のバッグが飛んできた。
 「馬鹿! いきなり居なくなって……12年も何してたのよ!」
 思わず声を荒げた後、ふと我に返って声を潜めた。
 「ちょっと移動しましょ」
 白い手袋をしたリシュアの人差し指を軽く掴んで人ごみの間を器用にすり抜けていく。人影のないポーチに出た女性は、ひとつ大きな息をした。
 彼女の名はドリアスタ=アビィ=アンビカ。元老院議長であるドリアスタ侯爵の一人娘だ。多忙な父の代理で今日はこの場に出席することになったのだった。
 ルーディニア子爵家長男のリシュアとは幼馴染であり、親が決めたこととはいえかつては許婚でもあった。しかし12年前、当時16歳のリシュアは誰にも何も告げずに突然家を出た。傭兵に志願したのだとか戦死したらしいとかいう噂が流れ、許婚の話もいつしか立ち消えとなっていた。
 アンビカの大きな碧の瞳が鋭く睨み付けていた。
 「一体何してるのよ、こんな所で」
 「つれない言葉だな。折角の感動の再会だろ?」
 頬に触れようとする手を素早く払い除けられても、リシュアは一向に意に介さないようだ。
 「軍人になったって……本当だったのね」
 アンビカは軍服に身を包んだリシュアをまじまじと見つめた。
 「何言ってるんだ。手紙書いただろ……何度も」
 意外な言葉にアンビカはきょとんとして彼を見返した。
 「貰ってないわよ。そんなの」
 今度はリシュアが目を丸くした。
 「そんなはず…写真まで入れて送ったんだぜ!」
 そう言ってリシュアはふむ、と考え込んだ。
 「くっそ、もしかしてあのクソジジイ俺に嫌がらせで手紙捨てやがったのか…?」
 「……良く分からないけど、余程嫌われてるのね……どうせ相変わらず好き勝手やってるんでしょ」
 呆れた様にアンビカは言い捨てた。肯定するでも否定するでもなく、にやけ笑いを浮かべているリシュアの顔をしばらく見つめていたアンビカはふと顔を曇らせた。
 「ねえ、新しい寺院警備の主任ってまさか……」
 「ん? ああ、なりゆきでな」
 寒そうな様子のアンビカを気遣い、中へと促し肩に手を添えた。二人は再び美しい弦楽器の音が流れる暖かい部屋の中へと戻る。リシュアはグラスを2つ取り、1つをアンビカに渡した。
 「宗教嫌いのあなたがどういう風の吹き回し? ミサにもほとんど行ったことなかったじゃない」
 「男には色々あるんだよ」
 はぐらかすリシュアの横顔を見つめてアンビカは黙り込む。少し考え込んだ後、周りに人がいないのを確かめた後に声を潜めて鋭く言った。
 「止めたほうがいいわ、この話」
 飲みかけたグラスを持つ手が止まる。
 「カトラシャ寺院は曰く付きの場所よ。貴族の出のあなたが配置されるなんて……何かあると思う」
 「嬉しいね、心配してくれるのか?」
 深刻なアンビカの顔を笑顔で覗き込むと、鼻が触れそうな位に顔が近付いた。
 「ふざけないでよ、馬鹿」
 少し顔を赤らめてアンビカは体を背けた。くすくすと愉快そうに笑う元許婚を睨みつけ、バッグを持つ手をぎゅっと握り締める。
 「あなたの前の担当者……死んでるのよ」
 そう告げられた言葉にもまるで上の空で、通り過ぎる美女を目で追うリシュア。
 「もう、知らないから!」
 今度は怒りに赤くなったアンビカがバッグでリシュアの尻を叩いた。
 「分かった分かった。気をつけるさ。忠告感謝するよ」
 今度は本当に感謝を込めてアンビカの肩を抱いた。先程夜風に晒されていた肌はひんやりと冷え切っている。
 「これじゃあ風邪をひいてしまうな。暖炉に当たるといい」
 そう言って部屋の隅にある暖炉のそばのソファへと移動した。しばらく二人は黙ったまま並んで座っていた。
 「しかし綺麗だ……随分と見違えたな。あのお転婆のアビィが」
 「あなたは相変わらずね」
 アンビカは胸の高鳴りを隠して素っ気無く返した。
 それでも互いの近況や子供の頃の懐かしい思い出を話すうち、二人の会話は盛り上がっていった。
 「俺達を無理に追いかけて川に落ちたこともあったっけな」
 「やめてよ。忘れてたわ、そんなこと」
 肩で小突きながらもアンビカの顔は嬉しそうだった。そのまま軽くもたれかかるように体を寄せる。リシュアはアップにしたその美しい髪に軽く触れた。
 アンビカが顔を上げた。
 目と目が合い、そのまま自然に唇が触れた。軽く触れるだけの、しかし長いキスは彼らに鮮やかに昔の記憶を蘇らせた。アンビカは誰かに見咎められはしていないかと見回した後、頬を染めてうつむいた。
 「飲み物を取って来よう」
 「そうね。お願い」
 リシュアは立ち上がり、ホールの人ごみの方へと歩いていった。

                                                        

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