風が吹く前に 第3部 (10)                       目次 

 司祭は視線を上に向けた。リシュアもつられて塔の上方を仰ぎ見る。
 大きな巻貝の中にいるような螺旋状の塔。その先端はガラス張りになっており、丸く切り取った星空と細く青白い月(リュレイ)が小さく見える。
 「ここはまるで井戸の底ですね」
 リシュアは何気なくそう口にした。
 「……そうですね」
 そう答えた司祭はひどく寂しげな顔をしていた。
 す、と司祭は手を伸ばす。その手は月(リュレイ)を掴むかのように空を握り締める。
 「天女の還る場所は月(リュレイ)だと聞きました」
 小さく呟くような声が塔の中に響き渡る。
「私が本当に天女なのだとしたら、いつかあそこに還ることができるのでしょうか」
リシュアはじっと司祭の横顔を見つめた。
 「司祭様は月(リュレイ)に行きたいと思っていらっしゃるのですか?」
 リシュアの問いかけに、司祭は僅かに苦笑する。
 「つまらぬことを申しました。どうぞ忘れてください」
 そしてまたいつもの柔らかな表情に戻り、リシュアの横をすり抜けて塔を後にした。リシュアは呆けたようにその後姿を見つめていたが、はっと我に返ると慌ててその後を追った。
 
 部屋に戻ると、クラウスがドアの近くに立っていた。
 「ああ、クラウスさん。一人でお歩きになって大丈夫なのですか?」
 司祭が駆け寄って手を貸そうとするのを笑顔で押しとどめ、クラウスはしっかりとした足取りで歩き始めた。
 「びっくりさせようと思って少しずつこっそり練習していたんだ。手もちゃんと動かせる」
 そう言って両手を差し出して10本の指を器用に動かして見せた。
 「良かった……。本当に、びっくりいたしました」
 司祭は嬉しそうにクラウスの指をそっと握り締めた。クラウスも笑顔で司祭を見つめる。
 「あー、一人で動けるならもう看病は必要ないな。部屋もどこか別のところに移動してもらおうか」
 その言葉に司祭は少し不満そうにリシュアを振り返った。クラウスはにこにこと笑いながら答える。
 「ああ、いいよ。いつまでもここにいちゃフィルアニカさんも落ち着かないだろうしね。どこか余ってる部屋があるのかい?」
 司祭は握ったクラウスの手を引き寄せるようにして小首を傾げる。
 「落ち着かないなどということはありません。もしクラウスさんがお嫌でなければ……」
 「司祭様、安全面から警備主任としてそれは認めかねます」
 リシュアの強い言葉に司祭は恨めしそうな視線を返す。しかし警備上ということになるとさすがに嫌とは言えないようだ。
 「分かりました。では隣りの部屋が空いておりますので、そこに」
 隣りでは今と大して変わりがないではないか、とリシュアは叫びたくなったが、ここは渋々譲歩することにした。
 
 クラウスはすぐに通常の健康な人間と同じまでに回復した。警備の巡回の目を盗んで裏庭に出て散歩をすることもあった。子供達もとても良く懐き、まるで昔からここに居たように馴染んでいった。
 司祭は子供達にクラウスのことを「妖精さん」と呼ばせ、自分達以外の人間には絶対に秘密にするように固く言い聞かせた。
 「妖精さんは他の人に見つかると、ここからいなくなってしまうのですよ。だから決して誰にも話してはいけません」
 事あるごとに司祭はそう子供達に話していた。子供達も大好きな「妖精さん」がいなくなっては大変だと、しっかりとその言いつけを守った。
 
 クラウスには色々な特技があった。草笛を吹いたり、歌を歌ったり。手先も器用なので子供達に折り紙や独楽を作ってやっては一緒に遊んでいた。
 また、庭にブランコも作ってやると、子供達は大喜びでクラウスに背中を押してもらいながら歓声を上げた。子供好きというのは子供にもすぐに伝わるのだろう。楽しそうに子供を抱き上げるクラウスの周りにはいつも子供達が取り囲み、それを嬉しそうに司祭が見守っていた。
 正直リシュアは面白くなかった。後からやってきて、司祭や子供達の心を掴んで入り込んできたクラウスが疎ましくて仕方がない。
 しかし司祭はすっかりクラウスを信用し、相変わらず過保護すぎるほどに付き添っている。下手にクラウスをないがしろにすれば、リシュアが司祭に恨まれるのは目に見えている。リシュアの悩みは尽きることはなかった。
 
 
 その日リシュアはパレードに関する会議で本部に呼ばれていた。会議自体は関係者の顔合わせと資料の読み合わせという非常に退屈なもので、リシュアはすっかり飽き飽きしていた。
 「パレードに参加する兵士の大部分が経験者であるから、それほど指揮は難しくないだろう。ただし今年は20周年ということでコースを大幅に変更する予定だ。その部分だけ各自しっかり把握して努めるように」
 赤毛の髪に顎鬚を短く揃えた大佐が会議所をぐるりと見渡す。報道担当主任の少佐が挙手をして立ち上がる。
 「コースの変更についての詳細がいまだに知らされていませんが……」
 大佐は後ろ手のまま頷き、鋭い目で質問した少佐を見つめる。
 「現在内乱による暴動やテロの危険性を考え、コースの発表は年が明けてから、内々に行われる。各自そのつもりで対応するように」
 会場がざわめく。大事なパレードに、重要なコースがぎりぎりまで発表されないというのは非常に問題があるだろう。
 「他に質問はあるか?」
 場が静まる。納得がいかないとしてもそれを口に出せる者はいなかった。
 
 閉会の挨拶があり、各々が会議場を出て行った。
 その中にオクトの姿もあった。リシュアに向かって小さく手を上げて歩いてくる。
 「いよう。お前居眠りしてたろ」
 開口一番指摘されてリシュアはバツが悪そうににやりと笑った。
 「何だよ、見てたのか」
 「あれだけ皆が背筋伸ばしてる所で船漕いでりゃそりゃあ目立つさ」
 愉快そうに笑うオクトに肩を竦めて見せ、リシュアは首をコキコキと鳴らした。
 「あーしかし、本当につまらん会議だった。あんなもんそれぞれが資料見ておけば済む話だろうが。なんでこう役所ってのはムダな仕事が多いのかね」
 続いて両手を伸ばして大あくびをする。
 「一度に説明して一度に質問受け付ければ楽だからだろ。まあ、こういうのもムダに見えて大事なことさ。たまには我慢しろ」
 苦笑しながらオクトは軽くリシュアの背を叩く。
 「まぁなぁ。しかし肝心のコースの説明がないってのはどうなんだ? 準備も何もあったもんじゃないだろう」
 そんなリシュアをじっと見つめてオクトは真剣な表情になる。
 「なぁ、リシュア。この任務はかなりデリケートだ。受けた以上はかなりの覚悟がいるぞ。あまり逆らわずに真面目にやった方がいい」
 「こんなお祭り騒ぎがか? お前も心配性だなぁ」
 リシュアは呆れたように笑う。しかしオクトは声を低くして更に続けた。
 「今回はそれだけじゃない。最近世の中が貴族や皇帝への懐古主義に変わってきている事や、それに乗じて貴族達が復権への動きを見せていることを軍は面白く思っていない。今は話せないが、何か大きな動きがあるかもしれない。くれぐれも目をつけられるような事はするんじゃないぞ」
 リシュアはそれに対してただ口の端を上げて答えた。
 「まぁ、お前からの忠告だ。有難く受け取っておくよ。それより折角会ったんだし、遅くなったけど昼飯でも一緒にどうだ?」
 友の誘いに笑顔を返しつつ、申し訳なさそうにオクトは首を振った。
 「悪い。またすぐ現場に戻らなきゃならないんだ。また今度な」
 そうして固く握手を交わすと忙しそうに早足で去っていった。
 「……相変わらず忙しそうな奴だ」
 リシュアは頭を掻きながら息を吐き、親友の背を見送った。
 
 
 オフィスに戻るとミレイが忙しそうにタイプを打っていた。
 「あ、中尉お疲れ様でした。会議どうでした?」
 ひざ掛けを取って立ち上がり、手早くコーヒーを淹れるとリシュアの前に置いた。
 「特になんていうことはなかったなあ。実につまらなかった」
 ミレイは短くため息をつく。
 「まぁ、どうせ居眠りでもされていたんでしょう。寝起きの顔してますよ」
 秘書に指摘されてリシュアは思わず苦笑いをして両手で頬をさすった。
 「聞くだけムダな会議さ。俺だって警備で疲れてるんだ。いい休憩になったよ」
 にやにやと笑って答え、熱いコーヒーを飲み下す。ミレイはそれ以上言うのをやめて席に戻った。
 リシュアがこのパレードの担当に任命されてから、彼女はすこぶる機嫌がいい。寺院の警備に加えてこのパレードと、昇進を約束される仕事が立て続けに舞い込んで来たのだ。自分の待遇にも影響がある以上、浮かれるのも当然の事かもしれない。
 リシュアもそのおかげで普段はうるさい秘書の小言を聞かされずに済んでいるのでほっとしていた。
 「なぁ、今そんなに貴族や皇帝が人気なのか?」
 ミレイは驚いたような顔になってリシュアに向き直る。
 「やだもう。知らないんですか? 今世の中は皇帝のご落胤……フィルアニカ様をもう一度国のシンボルとして掲げようって勢いですよ。クーデターで実権は軍のものになりましたけど、国はまだ帝国のままじゃないですか。やはり皇帝が必要なんじゃないかっていう意見が増えてます。いつまでも司祭様を寺院に閉じ込めておくことに批判的な政治評論家も最近はよくTVに引っ張り出されてますしね」
 「へぇ。世の中はそんなことになってるのか」
 ミレイは呆れたように言う。
 「中尉まで寺院に引きこもっちゃって、世の中に疎くなられちゃったんじゃ困りますよ。ちゃんとニュースくらい見てください」
 ミレイが見ているのはニュースはニュースでもゴシップニュースの類だろう、と思わず突っ込みたくなるのを我慢して、リシュアはコーヒーを飲み干した。
 
 
 ミレイが書類の束を手に引きとめようとするのを振り切って、リシュアは寺院に戻ってきた。途中の店で沢山のチョコレートを買い込み、司祭や子供達への土産にした。クラウスのことを妬んでいても仕方がない。自分は自分なりに彼らと親しく接していくしかないのだ。
 内乱でチョコレートのような菓子は品薄になっている。新都心でも高級店にしか置いていないものだ。最近出費がかさんでいて少々痛手ではあったが、司祭や子供達が喜ぶと思えば気にはならなかった。
 
 浮かれた気分で裏庭へ続く木戸をくぐったところで、リシュアはふと立ち止まった。遠くから司祭の笑い声がする。
 裏庭の隅のクラウスが作ったブランコに、司祭とクラウスの後ろ姿があった。二人は仲良く並んでブランコの椅子に座り、楽しそうに揺れていた。クラウスの横顔が何か話すと、司祭が声を上げて笑う。それはリシュアでさえも滅多に聞かないような楽しそうな笑い声だった。
 リシュアの心に強い感情が湧きあがる。それは激しい嫉妬だった。
 彼は怒りを堪えて唇を噛んだ。射るような視線で二人を見つめていると、二人の体が大きく揺れてバランスを崩した。それを支えるようにクラウスが司祭の背に手を回し、司祭はその手に掴まった。一瞬そのまま止まって、司祭が慌てて恥ずかしそうに俯いた。
 もはや見ていることが苦痛になり、逃げるようにリシュアはキッチンに駆け込んだ。誰もいないキッチンのテーブルの上にチョコの箱を置き、そのままその場を後にした。
 
 愛する司祭と自分の居場所を同時に奪われたような気分だった。怒りとも悲しみともつかない感情が渦巻いて、思わず叫びだしそうになりながら早足で廊下を進んだ。
そのまま塔へと向かう。昼でも塔の中は薄暗く、天窓から差し込む光の柱の中に細かい塵がきらきらと舞っている。
リシュアは司祭に告白したあの夜のことを思い出していた。あの日確かに司祭は自分の腕の中にいたのだ。こんなにも早くあの誓いが危ういものになるとは、あの時は思ってもいなかった。
あの言葉はなんだったのだ。ここで二人は確かに塔の祝福を受けたではないか。
しかし昼の光に照らされた塔は白々と無機質な顔を崩そうとはしない。リシュアは祭壇に目を移した。
 祭壇に、ルニスの花が1輪置かれている。
 あの日以来毎日欠かさず司祭が祈りを込めて祭壇に捧げているものだ。白い花びらから黄色い花弁が覗き、甘い香りは一晩置かれたままでもまだ強く香っている。
 
 リシュアは祭壇に歩み寄ると、そのルニスの花を片手でぐしゃりと握りつぶした。花粉がリシュアの左手を黄色く汚す。そのまま両手で茎を折り丸めると、床の上に打ち捨てた。
 怒りをぶつけるにはあまりにもか弱い花。手ごたえのなさにリシュアは気が抜けたように床に落ちた花の残骸をぼんやりと見つめた。そのままのろのろと折れたルニスを拾い上げ、庭に抜ける通路に向かった。
 
 塔から出ると、両手に籠をかかえたイアラが林の方から歩いてくるのが見えた。見つかる前に立ち去ろうと思ったが、その前にイアラはリシュアを見つけて駆け寄ってきた。
 「見て、今日はこんなに茸が採れたわ。美味しいシチューを作るから、食べに来て」
 そう声を掛けてからようやくいつもと様子が違うことに気がついたようだ。リシュアをしげしげと眺め、彼が手にした花の残骸に目を留める。
 「やだ。いくら嫌いだからってそんなにしなくたって……」
 何もしらないイアラは呆れた声を出す。リシュアはどう答えていいのか分からずに顔を顰めたままぼそりと呟いた。
 「ルニスの花は嫌いなんだ」
 イアラは肩を竦めて歩き出した。リシュアもルニスの花をぽいと後ろに放り投げてその後を追う。イアラはいつもと変わらず接してくれている。何だかそれがとても嬉しかった。
 
 「最近の司祭様はちょっと変わられたわ」
 ふいにイアラが呟いた。
 「そうかな」
 一瞬心を読まれたような気がしてどきりとしたが、平静を装ってリシュアは答える。
 イアラは大きく頷いて首だけをリシュアに向けた。
 「ちょっとあのクラウスって人に対して過保護すぎると思うのよ。なんだか……」
 一瞬言葉を切り、前を向いて言葉を繋いだ。
 「なんだか司祭様を取られたみたいで……。ちょっと、やだな」
 その声は明らかに不満げだ。リシュアは思わず表情を緩める。
 「……そうだな。お前はそう思うかもな」
 知らずと顔が笑みを浮かべていた。イアラのむくれた顔を見ていと、少し気持ちが軽くなった気がする。少なくともイアラは自分と同じ気分でいるらしい。面白くないのが自分だけでないと知っただけでもかなり気分は楽になった。
 
 
 夕方になり司祭が礼拝に来た信者の応対をしているのを確認して、リシュアはクラウスの部屋を訪ねた。
 「入るぞ」
 ぶっきらぼうに声を掛け、リシュアはクラウスが寝泊りしている部屋に入る。
 「やあ、今日は一緒に夕食を取るんだってね。たまには中尉さんともっと話したいと思ってたんだ。楽しみだよ」
 クラウスは人のいい笑顔でリシュアを迎え入れた。この笑顔を向けられると、ついつい気持ちが挫けそうになるのだが、今日はもう譲歩するつもりはなかった。一向に記憶が戻る様子が見えない事に苛立ちを感じ、もう我慢も限界だった。
 「お前に聞きたいことがある」
 ドアを後ろ手に閉め、勧められた椅子に座ることもなくリシュアは切り出した。
 「ん? なんだい? 俺で分かることなら何でも聞いてよ」
 リシュアは黙ってポケットから銃を取り出した。あの日塔の近くの林の前で拾った銃だ。
 「うわぁ、なんだか物騒なものが出てきたね」
 クラウスは驚いたように目を丸くした。
 「お前が倒れていたところの近くでこれを見つけた。見覚えはないか?」
 意外そうにクラウスはリシュアの顔に目を移した後、再び銃を見つめた。その目は記憶を探るようで、ただ黙って吸い込まれるように銃を見つめ続けていた。
 ふっ、と眉間に皺が寄り、軽く唇を噛む。
 「……分からないな。何だか見覚えがあるような気もするけど、思い出せない」
 「見ただけで駄目なら手に取ってみろ」
 リシュアは銃をクラウスに手渡した。クラウスは恐る恐る銃を両手で持ち、重さを確かめてみたり顔を近づけて細工を眺めたりしてみた。
 「ごめん。やっぱり分からない。俺も早く記憶を取り戻したいんだけどな……」
 呟くクラウスは不安そうだ。やはり記憶がないというのは心もとないのだろう。
 「まあ、焦っても仕方ないか。これはお前が持っていろ。弾は抜いてある。手元に置けば思い出すこともあるかもしれんからな」
 そう言ってリシュアはクラウスの手に美しい銃を握らせた。
 

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